出張の移動中に、中国の仙人伝を読む。文献は劉向・葛洪『列仙伝・神仙伝』沢田瑞穂訳(東京:平凡社ライブラリー、1993)
劉向と葛洪は、それぞれ紀元前一世紀と紀元三世紀に生きた著者で、彼らに帰される二つの仙人伝を集めたのが本書である。どちらも、70人あまりの「仙人」たちについての短い伝記と事蹟の集成になっている。訳者の沢田によるものと、文庫版につけられた井波律子の、二つの解説がつけられているが、沢田のものは、中国の古典文学研究の香り高い、文献学の蘊奥を究めた、学問とはかくあるべしというお手本で、私などが読むと内心忸怩たるものがある。一方、井波の解説は、『列仙伝』と『神仙伝』の違いを明快に指摘した、若々しい学者の才気があふれるもので、これを読んでから本文を読むと、井波が論じていることしか頭に入らないという弊害があるほどの優れたものである。この二つの解説がついた文庫本が、わずか1400円で手に入る文明国に住む幸福を実感させてくれる書物である。
井波が論じているように(笑)、『神仙伝』では錬金術が非常に大きな位置を占める。『列仙伝』では、仙人になる秘訣として植物系の薬草が挙げられていたが、後代の『神仙伝』では、水銀や硫黄などの鉱物が主役を占める。金属系の薬品を調合する秘術が仙人を作るという、知識と技術に基盤を持つ人間改造のヴィジョンが語られるといってもよい。それに較べて『列仙伝』では、何が人を仙人たらしめるのかという部分は曖昧になっている。これを井波は「仙人のエリート化」と名づけている。エリート化した仙人たちは、白日昇天して天上界に昇るものと、地上に生きているものという大きな区別があって、それぞれの中でもさらに細かい階層に分かれていて、階層に応じた分業すらある。
井波先生の「解説」に書いていないことを蛮勇を奮って書くと(笑)、どちらも仙人の「伝記」というより、仙人の「目撃譚」というべき性格を持っている。その出自や、数百年にわたる長い人生の過程の部分は省かれていて、仙人が俗世間に下りてきてどのような活躍をしたかという部分が、個々の記述の中心である。特によく描かれているのが、王侯の宮廷における仙人の事蹟であって、王にした助言や、宮廷で見せた不思議な技などを詳細に記される。そして、締めくくりは、「そして、龍に乗って何々地方に行ってしまい、そこで三百年生きたという」というような形式が多い。伝記が描くのは、何百年という彼らの人生の、わずかな部分のスナップショットである。