「事故傾向性」という病気

新着雑誌から、「流行らなかった精神病概念」を調べた論文を読む。文献は、Burnham, John C., “The Syndrome of Accident Proneness (Unfallneigung): Why Psychiatrists Did Not Adopt and Medicalize It”, History of Psychiatry, 19(2008), 251-274.

「20世紀にはいって精神医学の権力が広がり高まった」ということを論じる時に引き合いに出されるのが、それまでは医学的・精神医学的な問題ではなかった現象を病理化する動きがあったという事実である。たとえば年寄りが「もうろくした」という現象は老年性精神障害として、ある個人が「内気である」という現象はパニック性障害として、それぞれ精神病の診断名が当てられた。これらの事例は、確かに精神医学の対象となる人間の行動や情動の現象が拡大していることを示している。しかし、精神医学は百戦百勝だったわけではない。精神医学が病理化しようという動きを見せながら、精神医学の問題としては定着しなかった現象も数多くある。そのひとつが、この論文で論じられている「事故傾向性」(accident proneness) であって、20世紀前半のイギリス・アメリカとドイツの医学雑誌などで論じられたこの概念を広くサーヴェイして、その起源と経過を分析している。

「事故傾向性」の概念は、労働衛生学と保険医学と密接な起源を持つ。労働衛生学は、ある工場で起きる事故のかなりの部分が、特定の個人に起きていることを明らかにした。工場の事故を減らすことは、効率を上げて労働災害を防止する当時の経営者・雇用者の関心にも合致し、この概念は注目を集めた。保険医学においても、保険加入者がどの程度事故に遭うかというパターンを発見することは大きな意味を持っていた。これらの現場と深い関係があった心理学者たちは、統計に基づいたこれらの「科学的」な概念をさかんに研究し、この現象は、個人の心理の問題であるとされた。カール・メニンガーなどの精神分析の影響を受けた医者は、深層心理の理論を援用して、すでに精神病理化の長い歴史を持つ自殺・自傷の問題と結びつけた。事故傾向性は、深層における自己破壊傾向が、形を変えて現れたものであるというわけである。これは、「意図しないが、事故を望んでいる」というパラドックスをかかえた病気であり診断であった。

しかし、「事故傾向性」は精神医学の診断としてはテイクオフしなかった。それは、20世紀の半ばから広範にかけて、折に触れて論じられることはあったが、メジャーな精神疾患分類や教科書の中で確立しなかった。その理由は、それが核になる症状を欠いていたからだという。