藤原定家のマラリア

必要があって、鎌倉時代のマラリアに関する論文を読む。文献は、中村昭「『名月記』における瘧疾の検討」上・下『日本医史学雑誌』34(1988), 172-184; 431-444.

高名な歌人で新古今和歌集の選者であった藤原定家の日記『名月記』から「瘧」(マラリア)についての記述を拾って分析した論文。一日おきに発熱する定型的な三日熱マラリアの例が数多く記されている。医者は無論のこと医者でない人々も、この病気のわかりやすい規則性を知り尽くしており、発心地(おこりここち)がして病気が始まると、一日おきの熱の上下がしばらく続くと予想して、その予測に基づいて行動する。熱が上がる時間もだいたい一定なので、勤めを早退して発熱に備えたり、あるいはその時刻になっても発熱がないと、これで病気も終わりで一安心とばかりに、治療者(験者)を退出させたりしていた。免疫を持たない小児の頃は発熱が定型的で二日に一回だけれども、大人になるとくずれがちなことにも気づいていた。寒い季節には珍しいということにも、夏のたまり水がある土地は、瘧が生じやすいから避けるべきだということにも気づいていた。定家の子供が一度に二人、マラリアにかかり、同じ時期には家の使用人などもかかっているケースがあった。また、この情報が私には一番重要だったのだけれども、瘧が「天下」に広まっているという記述もあった。これらは、まぎれもなく、当時の京都にマラリアが広まっていたことの証拠に他ならない。

方法論としては、貴族の日記から本人や家族・知己がマラリアに罹った記述を拾って解説と解釈を加えているだけだが、日本の古代・中世のマラリアという大問題(笑)についての必読文献である。日本史の研究者の間では、日本にはマラリアがなかったという前提で考えている人もいると仄聞するが、それは誤りだと断言できる。

それから、この徹頭徹尾エッセンシャリストな医学史の方法に拒否反応を示す同業者も多いだろう。しかし、この方法以外に、「鎌倉時代の日本にマラリアが存在したか否か」の問いに答える方法は、私には思いつかない。