200年前の乳がん手術


必要があって、イギリスの小説家、ファニー・バーニーの乳がん手術についての研究書を読む。文献は、Epstein, Juia, The Iron Pen: Frances Burney and the Politics of Women’s Writing (Bristol: Bristol Classical Press, 1989).

ファニー・バーニー (Frances Burney d’Arblay, 1752-1840) は、ジェイン・オースティンと同じ時期に活躍したイギリスの女性小説家で、私は作品を一つも読んだことはないけれども、ぶあつい小説が、ペンギンとかオクスフォード・クラシックスからたくさん出ている。彼女は1811年の9月30日にフランスで乳がんの手術を受けた。当時のヨーロッパは全身麻酔などはもちろんない時代で、アヘンチンキ入りのワインを飲んだだけで、乳房をごきごきと切除されるのだから、それはそれは痛かっただろう。バーニーはその後30年近く生存しているから、この手術は成功したといってよい。

この研究書の眼目は、古典的な文学研究者らしいシュアーな手法と、フェミニズム以降の先鋭な問題意識の双方をうまく組み合わせて分析していることである。焦点になるテキストは、バーニーが自分の乳がん手術のことを姉に書いた手紙である。これは、実際の手紙に加えて、その手紙の清書(送った手紙を清書して手元に残しておくことは、当時の慣例であった。現在の「送信済み」フォルダーは、それを自動的にやってくれる仕掛けだと思ってそんなに間違いない)があって、その二つの「テキスト」は、それぞれ別の機能をはたしていた。 前者は、姉に知らせるためであると同時に、父親にその事実の詳細を伝えない共同戦線をはるためのものであった。 後者は、それから10年以上も後に、バーニー自身や、息子や夫などが、この清書に書き加えたり、それを筆写したりして、個人の身体の上におきた事件を超えて、家族の記録としての機能を果たした。別の言葉で言うと、もともと共有できない痛みという現象を言葉にして記録にすることで、バーニー自身はそれを追体験し、バーニーの家族は擬似追体験できるような「アーカイブ」が作られたということができる。このあたりの複雑な事情を、バーニーの文書を丁寧に読んだスカラーシップから引き出した、非常にすぐれた洞察である。

画像は、バーニーの友人が描いた、おそらく乳がん手術後のバーニーの戯画。右の乳房を切除されたので、右利きのバーニーは非常に不便を感じてそれを嘆いていたというが、体が機械細工になってしまったような感じを出そうとしているのか。それから、体の左側から見た戯画にすることで、切除されなかった左の乳房を真横から描くことができて、普通の女性の体のシルエットに見えるという仕掛けも施されているのだろうか。この、機械仕掛けの乳がん手術後の患者の絵は、ちょっと微笑ましい。