必要があって、カントローヴィッチの『王の二つの身体』の第七章を読み直す。エルンスト・H・カントローヴィチ『王の二つの身体 中世政治神学研究』小林公訳・上下(東京:ちくま学芸文庫、2003)
これまで私が書いた論文の中で、医学思想と政治思想の関係に触れたことは何回かあって、そのたびに読み直しているもののひとつだけれども、今回ほど大きなヒントをもらったことはなかった。
全体の話は有名だから簡略に要約すると、後期中世に「王は二つの身体を持っている」という思想が成立する。ひとつは自然的身体で、これは王の死とともに消滅する。もうひとつが政治的身体と呼ばれるもので、こちらは、自然的身体の死とは無関係に永続するものである。この政治的身体の永続性(「王は死なず」)は、王が交代するときの即位と戴冠の間の小さな空白や、継承者が決まるまでの間の大きな空白とは無関係に、王権は連続的なものであることを保証する仕掛けであった。
逆説的なことに、この擬制によって、自然的な身体を超えて永続する王権は、実は自然的な身体の継承に基礎をおくようになる。(このあたりは、教皇による聖別だとか、いろいろな複雑な議論があるけれども、それはここでは省略する。)王位は長子によって継承され、長子は、特別な法や儀式によってではなく、王の「血を引いている」ことによって、永続する政治的な身体を自らのうちに持っているのである。すなわち、王の血筋自体が、聖性を持ち、高貴なのである。この唯物論的・生物学的な王の神聖化は、当時の医学が理解していた遺伝の原理である「血液」へと注目を集めた。「王の二つの身体」という政治思想は、王の身体の中を流れる血液は神の精霊が宿っているという、アリストテレス主義でもストア主義でもない生物学思想を要請したのである。この王権の概念は、「不死鳥」の概念と合致した。不死鳥は500年ごとに自らを荼毘に付し、その灰の中から復活することで有名な神話上の鳥だが、不死鳥は、一度に一羽しか存在しないが、その一羽の中には、永続する不死鳥という「種」が宿っている。その意味で、不死鳥は自然的身体と、永続する「種」という、二つの身体を一羽の中に兼ね備えているのである。