コレラと革命

必要があって、コレラと革命を論じた古典的な論文を読みなおす。文献は、Evans, Richard J., “Epidemics and Revolutions: Cholera in Nineteenth-Century Europe”, Past and Present, no.120(1988), 123-146.

コレラは、ヨーロッパにおいては19世紀の流行病であり、それはヨーロッパが、一連の革命に代表される大規模な政治変動を経験した世紀であった。コレラと革命、あるいは少なくとも社会の動揺の間には、何らかの関係があることを見て取るのはたやすい。1830年の革命の前後には最初のコレラ流行があり、1848年の革命のときにもコレラが流行していた。

伝統的な社会は、高い死亡率に対処する心理的・社会的な仕掛けを持っていたが、急激に死亡率が上昇する流行病に対しては、やはり動揺を見せる。その理由は、コレラにおいては、誰が罹患して被害にあうかということに明確な偏りがあり、社会集団ごとに、いったい何がいけないのか、究極的には「コレラの流行は誰のせいなのか」という問いに対して異なった答えを持っていた。コレラは、社会集団と、その世界観が衝突し緊張する舞台を用意するものだった。社会の中で、通常は機能している信用や協力などの凝集性が試練にかけられる場であった。

最も重要な洞察は、民衆暴動に関するものである。ヨーロッパを最初に襲った1830年期のコレラは、二つの特徴を持つ民衆暴動を生み出した。それは、暴力の方向が、権威に向けられていたこと、そして医者に向けられていたことである。中世のペストがユダヤ人など周縁的な地位を占めていたものに向けられていたのと対照的である。(この洞察は、何回読んでもしびれる箇所である・・・)そして、コレラそのものというより、国家がとった感染症コントロールのための行動が、人々の不満と暴動を引き起こす原因となっていた。この背景には、封建的なくびきや義務に対する長く深い民衆の恨みがあり、慣習によって裁可されていない新しい規則が現れた。これらの規則は、しばしば軍隊の出動によって強権的に執行され、民衆の移動の自由を禁じ、外部との通行の禁止など、日々の生活の糧を得る方法を奪うものであった。これと協力する先兵とみなされた医者たちも、民衆の暴力の対象となった。

1830年前後の流行は、ヨーロッパの政府に、ペスト時代の検疫と隔離に基づく方法が、あまり有効でない、あるいはすぐに有効でなくなることを教えた。検疫と隔離は用いられなくなり、とくに、ハンブルクやリュベックのような商業の利益を重んじた国家においては、ほとんど用いられなくなった。1848年に流行が帰ってきたときには、多くの国家は、すでに中世的な強権的な方法をとることをやめていたので、民衆の暴動・不安も少なくなっていた。それ以外にも、封建的な抑圧は減少して民衆の不満はへっていたし、あるいは、すでに革命がおきて、その不満が政治的な形をとっていた国家もいた。これらの条件を満たしていなかった国、具体的にはロシアにおいては、コレラをめぐる民衆の暴動は続き、1892年になっても、暴動と殺人が起きていた。その背景には、軍隊による検疫や隔離。強権的な消毒などがあった。