科学実験室の「碁」

必要があって、科学実験室でフィールドワークをして科学的知識が「つくられる」ダイナミズムを論じた科学論の古典を読み直す。文献は、Latour, Bruno and Steve Woolgar, Laboratory Life: the Construction of Scientific Facts, introduction by Jonas Salk, with a new postscript by the authors (Princeton, NJ.: Princeton University Press, 1986).

ある医学系の研究所の実験室で二年間のフィールドワークをして、そこで科学者たちが何をしているかを文化人類学者のように調べ、科学の実践のあり方を洗練された概念装置で分析した、科学論・科学社会学の新しい領域と展望を切り開いた名著である。いまから20年近く前、私がイギリスで大学院生だったころには、ラトゥールの英訳が出始めた頃だったから、彼の科学論は大流行していて、授業の文献リストや読書会の定番だった。実は、そのとき、正直言って、ピンとこなかった理論家で、それ以降も余り読んでいないし、ましてや使ってもいない。その時は、私自身の関心が、科学というより、「臨床」の問題だったからだと思う。今回、実験生理学の歴史を調べて論文を準備しているけれども、それでラトゥールを読んでみたらインスピレーションがあるかなと思って、昔、コピーで読んだ本をわざわざ買って読んでみた。今回も、あまりピンとこなかった。これは、きっと、私が年を取って、新しい視点を身につけて自分で新しい研究をすることによるコストが大きくなりすぎているからだろう(涙)

無駄話に終始して申し訳ないけれども、結論部分で、科学実験の日常から最終的な論文の執筆までを、無秩序から秩序を作りだすことであるという主張を説明して、マックスウェルの悪魔のたとえ話のほかに、もう一つ、川端康成の『名人』という碁の小説を利用して説明している。碁の対局において、最初のうちは打つ手の制限は非常に少ないけれども、意味がある手を打とうとすると、次第にその範囲が狭められてくるという意味で、ランダムで無秩序で自由な状態から、秩序が作られてくるという。最終的な「投了」の段階では、マス目の領有はほとんど決着がついていて、自由度は非常に少ない。その意味で、碁というのは、対局を通じて「秩序が作られる」のだが、この最終的な秩序の形は、あらかじめ決まっているわけではないというのが、ラトゥールが使っている科学と碁のアナロジーのキモである。

この箇所は、碁というゲームを理解しないイギリス人たちにとっては、もちろんピンとこない箇所である。彼らが口をそろえて言ったことは、チェスでは、序盤で打つ手というのは、無秩序に自由度が高いわけではなく、いくつかの決まったオープニングの「型」があるが、碁は違うのかということだった。(私は下手の横好きでちょっと将棋を指すけれども、将棋でも、ラトゥールが言う意味での自由度が一番高くなるのは、序盤の駒組みが済んだ中盤の仕掛けのあたりだと思う。)彼らは、日本人の私が快刀乱麻を断つように碁とラトゥールを説明してくれることを期待したけれども、私が、碁のルールをまったく知らなくて、役に立たなかった。もしかしたら、あのときの敗北感が、ラトゥールになじめない理由かもしれない。

あのう・・・ぎゃおすさん、お忙しいところお呼びたてして申し訳ないのですが、たしか、ぎゃおすさんは、碁を打たれるのでしたよね? 碁の序盤は自由度が高く、終盤に行くにつれて秩序が現れるというのは、直感で分かりますか? さらに、それが実験室における科学研究と似ているというのも分かります?