必要があって、主として中国戦線の戦争栄養失調症を現地で治療・研究してきた軍医が、その研究の成果を回想をまじえてしたためた書物を読む。文献は、長尾五一『戦争と栄養』(東京:西田書店、1994)。これは、戦争でいったんは烏有に帰した原稿を、辛うじて救い出したデータに基づいて再び執筆し、昭和30年にガリ版刷りで発行したものがただ一部残っていたものから版を起こしたという、非常に貴重な文献である。
戦争栄養失調症という病名がはじめて現れ、その現象が問題になったのは、昭和13年の徐州作戦であった。兵がやせ細り、なかなか治らない下痢をして衰弱していくのが問題となった。これに戦争栄養失調症という仮の病名が与えられたが、この患者たちから赤痢菌や赤痢アメーバなども発見され、腸管衰弱症という病名と理解をする医者もいた。この病気をめぐって、陸軍の軍医たちは紛糾した。病原体が主たる原因であると唱えるものもいたし、特有の臨床所見を有する栄養失調症であるとするもの、あるいは赤痢に罹病した後の悪液質(ってなんだろう?)であると考えるものもいた。その結果、戦争栄養失調症というのは、色々な症状が複合した、ある意味でヌエのようなものになり、また、その診断自体は、消去法的に到達される病気になった。すなわち、頑固な下痢やるい痩(私が持っているあたらしめの南山堂によると、脂肪組織や筋の減少により、標準体重のマイナス10%以下に体重が落ちたときをいう)を伴い、なかなか治癒しないもので、ビタミン欠乏症のように明確に同定できるものを除き、また、赤痢やマラリアなどの病原体が発見されたときには、これらも除いたものを、戦争栄養失調と名づけることにしたという。
その後、太平洋戦争が始まったあとにも、中支の作戦で大量に観察された。ソロモン諸島やラバウルでは、マラリアによる死者が多いのは、マラリア自体の悪性度というより、栄養失調のために、予防的に投与した薬が効かないという報告が上がってきた。昭和18年には、国民のあいだにも栄養失調症の心配があると警告され、19年には、内地で宿営している兵士や将校が、食料調達のための開墾作業で過労して栄養失調になるという悲喜劇のようなことが起きていた。19年には国民のあいだにも栄養失調症が広がり、帝大病院でも栄養失調症の患者が多く観察されている。20年の8月に終戦を迎えると、言論の自由化の影響もあって、「栄養失調」は一気に国民のあいだに広まった医学用語となった。
この著者は書いていないことだが、私が子供のころ、ユニセフの募金か何かで見た、アフリカの難民が「栄養失調」と呼ばれていたけれども、そうか、あの言葉は、日本で作られた言葉だったのか。意外でした。
しかし、医学の概念史・政治史・社会史・経済史をミックスしたひながたのような論文が書けるトピックですね(笑)