19世紀のカルテ

必要があって、19世紀のイギリスの地方病院の医者が記していたカルテの復刻を読む。文献は、Stutter, William, Stutter’s Casebook: a Junior Hospital Doctor, 1839-1841, edited by E.E. Cockayne and N.J. Stow (Woodbridge: Suffold Records Society, 2005).

この治療記録は、19世紀にイギリスのサフォークの開業医であったW.G. Stutter (1815-1887)が、若い頃に一般病院で勤務医をしていた時期(1939年から2年間)につけていた治療記録である。この時期のカルテを読むのは少し厄介で、当時の医学についてのテクニカル・グラスプが必要である。(どの時期でもそうだと思うけど)この復刻は、このカルテを読みこなすのに必要な知識を、A to Z 形式ですべて教えてくれる、信じられないほど親切な書物である。使われている薬の名前、あるいは薬の処方の仕方、病気の名前など、すべて説明されている。編者の言葉を借りると、医学の原資料を読むための「ロゼッタ・ストーン」になればいいという。なんとすばらしい。いま、ちょうど学部3-4年から大学院の「古文書演習」にあたる授業の題材になる教科書を探していたときだから、ちょうどよかった。蘭方医学が日本に持ち込まれた時期だから、当時のヨーロッパの医学と較べるのにもとてもいい。ちなみに、最も使われていた医薬は、一位が水銀、二位が樟脳、三位がカリウム化合物、四位が鉄、五位がコロシントウリである。このうち、樟脳はおそらくそれ自体の薬効というより、他の薬のベースになったものだと思われるから、それを除くと、水銀、カリウム、コロシントウリは、基本的に下剤と吐剤である。そして、鉄は血がたりないときである。どれも、体液の調節をするものである。(ついでにいうと、ヒルを用いた瀉血も行われている。)学部生向けに当たり前のことを書くと、聴診器を使って「ペクトリロクイ」などを聞き分けていたこの医者も、治療の段になると、いまだに体液説の枠組みに基づいた治療を行っていることが鮮やかに示されている。しかし、その効果を起こす薬については、大きく変化して、金属化合物が上位5つのうち3つをしめる、メタリックな治療になっている。