幕末の洋学

必要があって、中山茂が洋学の論文集に付した短い序章を読む。文献は、中山茂「序章」中山茂編『幕末の洋学』(京都:ミネルヴァ書房、1984)、1-14. 著者は、身分的には不遇だったことで有名な科学史研究者だけど、書くものには割りと良いものが多いと私は思っている。彼が自分で思っているほど創造的かというのは、議論が分かれるところだと思う。

幕末洋学を三つのパターンに分けている。一つは、幕府の小吏である天文学(暦法)をつかさどる天文方の天文学者たち。彼らは、中国式の暦法よりも西洋式のものがよいという認識にいたったが、彼らは幕府の官僚的な枠の外に出てその知識を広めて社会にインパクトを与えることをしなかった。長崎の通詞も、この幕府の役人/テクニシャンにあたる。もう一つが、医師である。彼らは、「市井に医をひさぐフリー・ランサー」で、幕府の役人よりも自由度が高かった。また、彼らは藩医であったとしてもせいぜい下級武士で、一代限りの職能人という性格を持っており、家業である家の枠にとどまる自己規制が働かなかった。彼らは大都市で医学を学び、開業すると、診療にあたるかたわら私塾を開いて、地方名望家となり、そこで蘭学を広める役割を果たした。しかし、彼らの自由は、裏返すと制度の中での弱さをも意味しており、洋学が日本の社会を変えるためには、やはり、世襲的な為政者である武士が洋学に全面参加しなければならなかった。江戸時代には武士は文官になっていたとはいえ、やはり、武官としての性格をアイデンティティの根源に持っており、アヘン戦争以後、国防的な関心からの軍事力の強化に熱心だった。すると、洋学・蘭学先行者で、外国語などを読む実力を持っている層である医師が、士族を生徒として洋学を教えるという事態が発生する。越前大野藩でも、適塾出身で身分としては医師である伊藤慎蔵を招いて教授として、洋学館で軍事技術を開発した。このように、第三の、政治的な関心を持つテクノクラートの登場を待って初めて洋学は日本社会に深いインパクトを与えたのである。