「死なう団」のメンバーの精神病

保阪正康『死なう団事件―軍国主義下のカルト教団』(東京:角川文庫、2000)
必要があって、「死なう団」と呼ばれた日蓮宗系の宗教団体についてのノンフィクションを読む。著者は著名な著作家で、もともとは1970年の三島由紀夫の自決に刺激されて調査を始め、資料を発掘し、関係者にインタヴューを重ねて72年に上梓した書物である。カルト教団の形成と官憲による圧迫と自滅を扱った貴重な労作であるだけでなく、登場人物が生き生きと描かれていることも、このマイナーな主題についての本が40年間求められ続けていることの理由だろう。

「死なう団」は、昭和12年2月に国会議事堂前など都心の5か所で、「死のう!死のう!死のう!」と叫んでビラをまいて切腹し、同日の夜に歌舞伎座では二人の女性が同様に「死のう!」と連呼してビラをまき、あるいは省線電車の品川駅でも若い男性が同様の行為を行った。これは、もともとは日蓮宗を批判して離脱して作られた日蓮会という団体があり、その盟主江川桜堂を中心とした一部の熱狂的な信者たちが行ったことであった。日蓮会は国粋主義反共主義日蓮への帰依などを特徴とする熱狂的な団体であった。昭和8年に、布教の一環として「死のう!死のう!」と連呼して街道を歩く奇矯なことを行い、神奈川県警に疑われて捕縛されてた。神奈川の特高警察は、前年に「一人一殺」のテロ活動を行った血盟団との関係を疑い、彼らを捉えて拷問にかけたが、後に彼らを釈放した。江川らは、この拷問が人権蹂躙・不法監禁であるとして神奈川県警起訴して、県警もついには膝を屈したが、江川らが望んだような形にはならず、彼らは絶望と尖鋭化の中で、昭和12年の2月に切腹事件などを起こした。

私の関心の中心は、この事件において、中心的なメンバーの一人であった今井千世が果たした役割である。今井の父は京都帝大卒の技術者で、本人も帝国女子医学薬学専門学校の薬学部に進学するなど、知識人層に属するメンバーであった。今井家からは、母親、妹二名、弟も日蓮会に参加しており、昭和12年2月においても、歌舞伎座でビラをまいたのは今井千世と妹の木和、品川にビラをまいたのは弟の久雄であった。千世は、昭和8年に特高に取り調べられたときに、肉体への殴打などだけでなく、全裸にされて足を広げられ、乳房をもまれ陰毛にマッチで火をつけられるという陰惨な精神的拷問も受けた。

釈放されてから、千世は精神を病んだ。夜中に飛び起き、弟の着物をきて蒲田の町を歩き、駅の便所の糞壺の中にすわって何やら叫んでいる。母親の前でも決して着物を着換えないのは、特高での拷問の経験が原因になっていることは誰でも見て取ることができた。あるいは、盟主の桜堂の愛人であるかのような下品な取り上げ方をした新聞記事にも病気の原因にあるのだろうし、仮にそうでなくても、新聞や雑誌の記者が現在でも使う下劣な部分を取り上げることは、関係者たちを傷つける構造を作り出していることは間違いない。千世は東京の精神病院に入院し、千世の妹は、神奈川県警を人権蹂躙で訴えた。入院している千世のもとに検事局の検事と帝大病院から医者が派遣され、身体に拷問の傷跡が歴然として残っていることが確認された。千世の精神病と拷問の痕跡は、一時的には、状況を日蓮会にとって有利なものにしていたのである。その後、理由は明確には分からないが、日蓮会の告訴は順調に進まず、神奈川県警は背後での取引に熱心になり、さまざまな事情もあって、日蓮会は自滅的な行動へ追い込まれていく。昭和13年の3月に、もともと病弱であった桜堂の死は目前になり、千世は盟主の死をさとって、その数日前に青酸カリを飲んで自殺した。

千世が収容された精神病院は東京・板橋(現在は練馬区)の慈雲堂病院である。開設者で初代の院主は田辺日草なる僧侶であり、千葉の漢方医科の家に生まれたのち、少年にして僧籍に入り、芝三田小山町の長久寺を継いだ。37歳の時に大病をし、千葉中山の法華経寺に参加して病気が快復し、以後、檀家の勧めもあって、長久寺にて精神病者の世話を始める。寺内にアパート風の建物をたて、病者の世話は付添いの家族と寺男にまかせるスタイルであった。30年に3200人の世話をしたとある。この日草が、警視庁の勧めにしたがって昭和4年に石神井に設立したのが石神井慈療院であり、昭和6年に「慈雲堂」と改称した。この病院は、文学者の辻潤が入院して「痴人の独語」で患者による法蓮華教の読経の様子を好意的に書いていることでも有名である。また、昭和24年に警視庁の金子準二という大物の医師を顧問によび、彼の著書2万4千冊をひきうけ、その後、医師たちが優れた研究活動をしたことでも有名である。確証はないが、慈雲堂がもつ日蓮宗との親和性が、千世をここに入院させることになったのかもしれない。