建部清庵・杉田玄白『和蘭医事問答』

同じく、日本思想大系『洋学 上』に、杉田玄白の著作として取られていた『和蘭医事問答』で、玄白に質問をしていた建部清庵という医者の質問がとても面白いのでメモしておく。

建部清庵(1712-82)は、奥州一ノ関、田村侯の侍医であった。彼は「瘍医」(外科医ということだと思う)であり、オランダ流の医学に興味を持っていた。もともと『和蘭医事問答』は、清庵と玄白の共著というべきであり、清庵がオランダ医学に通じた医者として探し当てた玄白に、長年疑問に思っていたことを書簡で尋ね、玄白がそれに答えるなかでオランダ医学の魅力を語るという書物である。玄白が、『解体新書』を出版してスターになろうとしている直前にかわされた書簡であり、大著を近刊する前の気負いが行間に横溢している。この書簡は、玄白の弟子たちなどによって筆写されて流通していたが、誤写などもあって細部が崩れてきたため、出版されたものである。このメカニズムも、出版と並行して書簡のやりとりが知の形成に重要であったという、近世の文化史一般を研究するうえで重要なことを教えてくれる。玄白の答えも、彼が理解していたオランダ医学というものの特徴について教えてくれる。

しかし、それよりも面白いのは、建部清庵の質問の中に含まれている彼の関心である。建部清庵は、オランダ語もできず、自分で辺鄙な土地にいるからとへりくだり、またオランダ商館とその医者の位置づけについて「所詮は馬方船頭のたぐいの商人であり、商人にやとわれる医者というのは、名人ではないだろう」という、身分制社会において殿様に召し抱えられている医者が持つだろう狭い視点を持っている。しかし、彼は硬直した医者ではなく、むしろ、不敵な野心を持つとすら表現できる医者であった。建部清庵がいうには、最近、オランダ直伝と称して流通している外科書の質が低いという。これは、オランダの医者が書いたものではなく、長崎通詞の言葉を、医学に詳しくないものが記し、適当に中国医学を補って書かれたものである。用いられている療法も、膏薬や油薬などばかりである。建部清庵の表現によると、長崎奉行に従って当地に行った鑓持ちや挟箱などが、長崎に一年いただけで直伝を称するにわか医者になって書いたものである。そのような、質が低い外科書の流通は、外科が自立したすぐれた学問の裏付けと妙術をもった医学になることを妨げている。これらの単純な外科は、内科との兼業になりがちで、独立した分科になることができない。建部清庵は、一家をなし、一流派を築こうとしていた。そのためにはオランダ医書の翻訳が必要である。「日本にも学識ある人が出て、オランダ医書を翻訳して漢字にしたらば、正真正銘のオランダ医学ができ、唐の書を借りずに、外科の一家が立つだろう」という。

建部清庵にとっては、外国流の医学の外科の妙術をまなんで、一家をなした模範は、一ノ関からほど近い仙台に二人もいた。天正年間に南蛮にわたってその地の技術を学び、仙台藩に外科のわざを伝えた毛利第八と、伝説によれば、中条流産科をはじめた中条帯刀は、南蛮で婦人科を学び、その流派を仙台につたえていた。これらの仙台の例に刺激され、建部清庵は、オランダから妙術を学ぼうとしていたのである。

建部清庵のうごきは、蘭学が受容されるときのダイナミズムについての重要な洞察を教えてくれる。一つは、野心的な医師たちの競争的な状況によって、ある技術を中心に一家をなし、一つの流派を立てようという上昇志向があったこと。その上昇志向を支える模範は、身近においても歴史にも存在していたこと。おそらく、外科において蘭学重視の志向が強かったこと、などである。江戸時代において、医療のダイナミックな変容を許した状況が、蘭学の受容が急速であった背景になっていたことを教えてくれる。