日本におけるヒポクラテス画像

緒方富雄『日本におけるヒポクラテス賛美 日本のヒポクラテス画像と賛の研究序説』(東京:日本医事新報社、1971)

江戸時代の漢方医たちは、中国医学の医聖の姿を描いた画に「賛」と呼ばれる詩文を添えたものを愛蔵していた。蘭方医たちが西洋医学にもそれに対応するものがないかと思ったのは当然であろう。杉田玄白は、代々の医師として引き継ぐ神農と黄帝の画に加えて、それに対応する西洋医学の医師にとってのカウンターパートを探し、ヒポクラテスの画像を描き、それに賛(画賛)を加えて愛蔵することとした。杉田によるヒポクラテスの画像と画賛はおそらく残っていないが、1799年に大槻玄沢が石川大浪に描かせたヒポクラテス画像や、それを模して作成された数多くの「右手の見える左向き」のヒポクラテス画像は現在も残っている。画賛は漢詩のようなものが記されることも、アルファベットで記されることもある。後者の場合は、オランダ語で記されている場合も、日本語の音をアルファベット表記(後世のローマ字化)してある場合もある。「エウロパの 妙なる薬(くす)の 道則を 開きましたる み顔なりけり」という和歌がアルファベットで表記されているという手が込んだものもある。

 

面白いエピソードは、明治10年から30年頃まで、日本の医者たちは、医師新村淳庵が画家結城正明に作らせた、ヒポクラテスとはかけ離れた聖ヒエロニムスの画像をヒポクラテスだと思って愛蔵していたことである。異様に迫力がある表情をして、光輪が頭上に浮き、死の象徴の頭蓋骨に手を置くヒエロニムスがヒポクラテスだと思われたことには、何かの意味があるのか、それとも単なる偶然なのか。これは、明治27年に留学中で後に東大の内科の教授となる入沢達吉が日本の医者たちの誤解を指摘して、当時の欧米で受け入れられていた、石像に基づくヒポクラテス画像を作成した。ただ、現在では、この石像そのものがヒポクラテスではないとされている。