必要があって、中世日本の「餓鬼草紙」を分析した論文を読む。文献は、LaFleur, William R., “Hungry Ghosts and Hungry People: Somacitity and Rationality in Medieval Japan”, in Michael Feher, Ramona Naddaff and Nadia Tazi eds., Fragments for a History of the Human Body. Part One (New York: Zone Books, 1989), 270-303.
少し前に「身体の歴史」をセクシーな学問的な主題にした、Zone Books の豪華な三巻本の論文集がある。本のサイズが大きく、イラストがカラー・高画質で美しいというだけでなく、執筆陣もとても豪華である。(クリステヴァとかジャック・ル・ゴフとかスタロビンスキーとか。)学者たちが新しい問題に取り組むときの新鮮な息吹と自由な洞察が感じられて、インスピレーションがほしいときには、よくこの論文集を読む。その中で、中世日本の「餓鬼」についての論文があるのを思い出して読み返した。
中世の日本で製作された「餓鬼草紙」の分析である。人々が悪魔だとか悪霊だとか、そのようなことを真剣な学問の対象としてみていた時代に、どのような意味と機能がそのような存在に与えられていたのかという話題で初めて、重要なポイントは三つくらいある。第一に、「餓鬼」というのは、因果応報で餓鬼として生まれ変わってしまった人間であるが、彼らに対する罰というのは、彼らの身体そのものであるというポイントが示唆に富む。地獄での責め苦というのは、業火であれ針の山であれ、肉をひきちぎる獄卒のやっとこであれ、体の外にある何かが罰としての痛みを与える。しかし、餓鬼に対する罰は、彼自身の身体によって与えられる。餓鬼の腹は異常に大きくて、どれだけ食べても満たされないにも関わらず、その喉は糸のように細く、ほとんど用をなさないからである。そのため、場所にかかわらず、また、苦痛を与えるための特別な道具や物がなくても、餓鬼はいつでも苦しみを与えられていることになる。
そのため、餓鬼は、姿こそ見えないが、われわれの日常生活にも現れ、そのあたりをうろついているのだというのが、餓鬼草紙の主題である。餓鬼は、貴族の傍らに潜んでいるし、都の小路で排便しているものの周りに集まってはその便をむさぼる。ある絵画は、歩きながら自慰行為をしている男の後をつけてその精液をむさぼる女餓鬼を描いているという。(これは、無理がある解釈のように素人の私には思えるのですが、専門家の方、いかがでしょうか?)これは、草紙を見るものに、自分たちの死後に、同じ世界にすみながらも呪わしい怪物になる可能性があることを教える(これを、「グレゴール・ザムザ効果」と呼んでいる)それと同時に、彼らには見えていないけれども、世界はどのような仕組みで動いているのかということを説明する機能を持っている。これを著者は、目に見えない世界の機構を示してくれるという意味で、「実在のX線」と呼んでいる。ふざけているようだけれども、なかなか鋭い洞察が含まれている。著者によれば、餓鬼草子が教えようとしているのは、見えない餓鬼がわれわれの近くにいて、排便をむさぼってくれるから、われわれの排泄物は、いつのまにかどこかに消えているのだということである。『餓鬼草紙』は、それを見るものに、世界には公衆衛生の機能を果たしている存在がいることを教えているのである。
もう一つの重要なポイントは、リアリズムの問題である。「餓鬼」は、異形の怪物ではなくて、きわめてリアルに描かれている。その突き出た腹は飢饉の栄養失調によく観られる浮腫であることは人目でわかるし、著者によれば、極度の栄養失調(クワシワコル)のときに髪の毛が脱色することが知られているが、餓鬼の髪の毛も赤毛に描かれているものがある。世界が「うまくできている」という秩序を示していると同時に、その悲惨な姿を映し出してしまっているのが餓鬼草子のパラドックスである。
画像は、都の小路で用を足す人々の傍らに群がる餓鬼たち。