『江戸の病』

必要があって、氏家幹人の『江戸の病』を読む。江戸時代の医学史は、面白い逸話が多く本格的な分析が少ない歴史研究の主題として取り上げられることが多く、良い意味でも悪い意味でも「軽い」歴史書、「ライト・フィクション」にならって「ライト・ヒストリー」といえるような書物や論文がたくさん出されている。この書物はまさに一級品のライト・ヒストリーで、とても楽しく読める。また、著者はセンスがいいプロの歴史学者だから、だいたいどのあたりに本当の問題があるのかということも見当がついているから、主題の選び方も、出産の慣習や、患者が医師を選ぶ構造など、そつがない。

杉田玄白が小浜藩の藩医として江戸で開業していたときに(言い方が不正確かな、これは)、毎年1000人あまりの患者をみて、うち、700-800人は梅毒であったと回想していること。梅毒の薬となる土茯苓(どぶくりょう)は68万斤、40万キロも輸入され、中国から輸入された薬物の47%であったこと、江戸時代の人骨を分析すると、やく半数が梅毒に罹患していると推測されることなどから、梅毒の罹患率は相当なものであったといってよいだろう。

氏家自身のオリジナル・リサーチも組み込まれていて、「官府御沙汰略記」という資料から病気や出産の記事が拾われていて、この部分は読み応えがあった。この記録は、小石川三百坂に屋敷があった幕臣小野家の日記体の記録だそうで、1745年から73年までの28年あまりをカバーしている。幕府のご沙汰や人事などのほか、色々のことが書かれているが、その中に、家族や親族知人、奉公人などの病気についても書いてあるという。この中に病死が260件記録されている。10歳未満の子供の死亡は38例というから、記録は大人の死亡にかなり偏っている。38例のうち10例は天然痘というのは、須田のO寺院のデータからの計算とほぼ一致する。

思わずノートをとる手に力が入ったのが、この資料に記録されている、乱心して座敷牢に閉じ込められていた例。全部で5件ある。

今井藤四郎(宝暦11、1761)33歳、19年以前より乱心し押込置。 近年おりおり痰積発り、今度も例のとおり痰積発り今朝急死。
人見勘次郎(宝暦13、1763)38歳、5年以前より押込置。当初夏より乱心し、明日暁積気指支え死。
小野藤八郎養父自覚(明和4、1767)69歳、40年来乱心にて一間に禁足し少しも病気これなく息災なるところ(中略)先月27,8日より不快にて食事だんだん減じ、今晩戊刻落命す。
小野十太夫(延享5、1748)25歳、先月より積聚胸膈へ?10日以前から絶食、今日の昼時落命、去去年より乱心しおりに入置・
服部良筑(明和5、1768)年齢不明、二、三年以前より乱心押込置きたるが昨日死す。

もちろん計算することは無意味だけれども、260例のうち5例が乱心で押し込められていた(ちなみに、すべて男である)というのは、やはり多いという気がする。