必要があって、中世ヨーロッパの生と死をまとめた解説を読む。文献は、Park, Katharine, “Birth and Death”, in Linda Kalof ed., A Cultural History of the Body in the Medieval Age (Oxford: Berg, 2010), 17-38. 短い記述の中に、非常に的確な事例とテキストと画像を選択して、近年のスリリングな中世研究の成果を伝えた、さすが実力者らしい解説である。多くの部分を、そのまま授業に使うことができる。
全体の特徴としては、社会史・文化史の伝統の中で仕事をしてきた医学史家らしく、中世の知識人たちが夢中になった身体についての哲学的な議論そのものよりも、一般の人々も含めての「身体の実践」に光を当てることで、「身体についての議論の歴史」ではなく「身体の歴史」を構築している。その中で、出生と死を、人の一生の時間上の点としてみるのではなく、ある幅をもった段階としてとらえることで、その段階がどのように構造化されていたのかを論じている。たとえば、胎児はある段階で「霊魂を持つ」とされ、この段階から人間となる。それは、人々の実践にとって重要な境界線であった。法的に、その胎児を殺すとある種の殺人になる境界線でもあった。宗教的には、それは人間の霊魂を持ち、洗礼によってキリスト教徒の共同体に入らなければならない。洗礼を受けずに死ぬと、その霊魂は世界の終末まで永遠にさまようこととなる。「霊魂を持つのは何時か」という精妙な議論も存在したが、それと同時に、一般の人々は、胎動 (quickening)をもって、胎児が母親に一人の人間という存在を宣言し、母親を通じて共同体にその存在を宣言する瞬間としていた。胎児が、それまでは形もない塊だったのが、人間としての存在になる瞬間があり、それを超えると、法・宗教・社会として違う対応をするという構造が存在したのである。その中で、後期中世以来、教会が洗礼に非常に重きをおいたことは、人々が胎児の身体に対して違う実践を行なうようになった理由である。胎児が洗礼を受けずに死んで永遠の呪いを受けないようすることがさまざまな実践に反映した。洗礼は一括で行われるのでなく、一人ひとりに対して行われるようになった。あるいは、死んだ胎児を一時的に生き返らせてくれる奇跡をほどこす聖人は人気が出た。新生児を殺した母親ですら、殺す前に子供に自分で洗礼を施した。教会による洗礼の強調により、生まれる前の胎児は、この世界の住人としての規範ある行動の対象となった。
出産、死、そして死後の身体を論じているが、いずれも非常に優れた記述であった。洗礼は胎児の幸福が最終的な目標であったが、出産においては、その主眼は母親にあった。幸福な出産の絵図に対して、私生児をみごもった母親は、その名誉を奪われて非難の対象となったので、しばしば、孤独で出産し、そのあとで新生児を殺すこともあった。(このあたりで裁判記録から引かれるどんぴしゃの引用が心地よい。)