坂口安吾『堕落論』

必要があって、坂口安吾「堕落論」を読む。初出は昭和21年4月号の『新潮』で、青空文庫版を読んだ。

世相が変わっても人間は変わらないというのが一つの議論であり、武士道・貞女論・天皇制は日本人が作りたがるような人工的な虚偽であるというのがもう一つの議論、最後に、戦争中は、人々は幻影を生きて虚偽の充実を感じていたというのがもう一つの議論だとまとめることができるだろう。

特攻隊員が生き残って闇屋になり、戦争未亡人は新しい面影を胸に抱き始める。これは敗戦のせいではなく、人間とはもともとそういうものなのだ。武士道・貞女・天皇制は、不自然だが軽々しく否定できないものであった。戦争の破壊は、人を激しく興奮させるものであり、充実感を与えていた。敗戦後の日本にみられた虚脱や放心ではなく、おどろくべき充満と密度を持つ無心が戦争中にはあった。日本人は素直な運命の子供であり、そこには堕落がなく、美しかった。しかし、その美しさは幻影であった。「私はおののきながら、しかし、ほれぼれとその美しさに見とれていた。」考える必要はなかった。ただ、美しいものがあるばかりだった。戦争中の東京は理想郷で、泥棒など一人もおらず、むなしい美しさがあるばかりであった。「私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。」

さすが一世を風靡した議論だけあって、不思議な魅力を持っている。「堕落論」というから、本当の堕落を論じているのかと思っていたら、相対的な堕落の話である。戦前の道徳や価値基準のすべてが目の前で失われていることを堕落ととらえ、それは敗戦のせいではなく人間の必然であるといい、正しく落ちて行ったさきに新しい道徳と価値基準があるのだという。虚脱と違和感を抱きこみながら、戦争責任についての厳しい自己批判よりも未来に希望があることを唱える、戦後の日本の方向を象徴する議論である。

敗戦のあと、過去の基準で測れば間違った行為をしている自分を「堕落」ととらえたうえで、それは人間の必然であるとする。まだ記憶に新しい、戦争のときの愛国心と興奮と破壊の衝撃を、美しいがそれは虚偽のものであったとして過去に葬る。そして、現在の放心と虚脱の先に、新しい価値の創造、人間としてふさわしい自分自身の新しい道徳を見つける希望があるという。戦前の状況の美しさと生の充実を認めながらそれは空虚なものであったといい、新しい状況を堕落であると認めながらその先に人間らしい希望を設定する、たしかに日本社会が戦前から戦後へとなめらかに移行することを助けるロジックだと思う。

戦後の新保健所とは、直接的には何の関係もないけれども、このテキストは、読んでおいてよかった。