クレペリン『精神分裂病』

クレペリン『精神分裂病西丸四方・西丸甫夫訳(東京:みすず書房、1986)
クレペリンは『精神医学』という教科書の版を変えながら自説を発展させるという、ユニークというか不気味というか、とにかく独特な仕方で精神医学の研究を行った人物である。最初は300頁くらいだった1883年の初版から、2000頁におよぶ大8版まで、精神医学における疾病とは何かという問題をつきつめて論じた精神医学者である。個人個人の、精神を病む悲劇を経験した患者という問題設定をしていないから、悪名が高い医者であり教科書である。実際に、そのテキストを読んでみても、患者の病んだ精神の構造を追体験できるような知的なスリルみたいなものは一切ない。クレペリンが疾患単位であると考えた疾病ごとに、克明に観察された症状や経過などを個人の患者から切り離し整理分類して「詰め込まれている」書物である。しかし、クレペリンの体系で患者が診断された精神病院のカルテを研究するとしたら、これを読まなくてはならない。まずは、やはり精神病院の主たる構成員である、現在では統合失調症と呼ばれ、かつては早発性痴呆や分裂病と呼ばれていた病気についての本を読んだ。幸いなことに訳者の一人の西丸四方は、精神医学者であると同時に翻訳の手練れであり、クレペリンが引用している患者の言葉や長い手紙・会話なども、たぶん、日本の精神病患者の発話の雰囲気が残るような形で訳しているのだと思う。

いま気がついたのだけれども、このクレペリンの翻訳では、昭和戦前期の精神病院の「飯のタネ」であった麻痺性痴呆の部分は訳されていない。たしかに、梅毒が治せるようになって激減し、今では実際上は消滅してしまった精神病についてクレペリンが論じている部分を翻訳しても、誰も読まないだろうというみすず書房の判断は正しいから、文句は言わないでおくが(笑)、もう一度繰り返しておくと、戦前・戦後を通じた精神病院のデモグラフィーの変化において、総人口の増大ということが最も重要なことだとしたら、次に重要なことは、疾病構造転換であり、入院のほぼ半分、在院の1/3 を占めていた麻痺性痴呆が、がたんと消滅したことである。