『クレペリン回想録』景山任佐訳(東京:日本評論社、2006)
『クレペリン回想録』をチェックして、二つのポイントをメモ。一つは比較精神医学(多文化精神医学)の構想について。もう一つは、ラーナーが論じていた、戦争神経症にまつわる、患者に対するクレペリンの嫌悪感について。
「早発性痴呆」「躁鬱病」の二つの診断を考案したクレペリンは、ドイツの精神医学を代表する巨人として、その名声は、第一次世界大戦前には絶頂に達していた。あたかもドイツ帝国の帝国主義的な進出に共鳴するかのように、クレペリンも「比較精神医学」の名称で、植民地支配に織り込まれた精神医学を構想していた。1915年にはシベリア鉄道で日本に行って、昔の弟子の協力を得て(呉秀三だろうか?)、日本の精神疾患の頻度と特徴について知ろうというプランを立てていた。また、日本にいったついでに、中国、ビルマ、シンガポールの民族混在地、そして仏教という偉大な宗教を生んだインドにいって仏教と大麻について調べ、エジプトに寄って帰ろうという壮大な計画を持っていた。このような、世界的な規模の比較精神医学研究を始動する計画は、第一次大戦の開始ですべてが吹っ飛んだ。しかし、大東亜共栄圏の成立とともに、この計画の東半分が日本で再開されたと考えることはできないだろうか。
次は戦争神経症。戦争の開始後、すぐに戦争神経症が問題になった。クレペリンは、自伝に次のように書いて、彼と彼の仲間の精神科医たちが、戦争神経症の悪用について嫌悪していたことを示している。
「このころには、戦争神経症の問題が議論されていた。精神科医としてわれわれ全員が、寛大すぎる年金給付に反対していた。というのも、われわれは患者と給付請求の急激な増大を懸念していた。しかし、不幸は避けられなかった。戦争が長引いたため、低格な人格(精神病質人格)がますます新規兵として増え続け、一般的な戦争疲労症が増大した。この結果、不幸にも、多少なりとも明確な神経症的病状があれば、野戦病院へ長期送還されるだけでなく、高額の年金をもらって除隊することさえできるよういな事態場生じていた。さらには、見せかけの手の震えを示す傷痍兵が巷に溢れ、人びとの同情をかい、多くの施しをうけていた。 このような状況にあって、「神経的ショック」とりわけ「生き埋め」された恐怖のために、除隊の権利とさらなる援助を受ける権利とを獲得できると信じる人々が氾濫した。」220-1
「ミュンヘンの近くの陸軍病院には、戦争神経症者が多く送り込まれ、この結果、暴力的な雰囲気の中で、不服従と反抗が生み出されていた。われわれの陸軍病院の(身体的)負傷者たちが、神経症者たちにとって代わられた。この変化は、かなり不愉快なものであった。苦しんでいる者を助け、彼らの回復を見ることは喜びであったが、いまや医療に対するあらゆる抵抗が新たに発生し、静寂を保つことがしばしば困難であった。」 222
・・・なるほど。この表現は、かなり強い印象を私たちに与える。しかし、K は、戦争神経症が、かつてヒステリーに用いられていた心理療法で治ることを目の当たりにして、大きな感銘をうけてもいる。221