民主的な公衆衛生とは何か

Baldwin, Peter, Disease and Democracy: the Industrialized World Faces AIDS (Berkeley: University of California Press, 2005).
公衆衛生には、感染症の予防に関して、個人の自由を共同体の安全と両立させるという根本的なジレンマがある。このジレンマをどのように解くかというのは、フランス革命以降の国家が直面した問題である。本書は、アメリカとヨーロッパについて、それぞれの政体がどのようなAIDS対策をしたかということを、民主主義と公衆衛生の視点から論じた大作である。

背景にあるのは、著者のボールドウィンが数年前に出した優れた書物で、19世紀の医療行政の比較史の書物、Contagion and the State in Europe 1830-1930(1999)である。この書物は、一言でいうと、民主的な政体は個人の自由を尊重する公衆衛生政策を取るという基本的な前提を木端微塵に否定した比較研究であった。民主的な政体がとる公衆衛生の政策を、独裁的な政体の公衆衛生に対比させたのは、医学史家たちが「アッカークネヒトのテーゼ」と呼んでいる有名なテーゼで、公衆衛生政策の民主制を、それが行われた政体の政治体制を比べるときには、必ず参照される議論である。このアッカークネヒトのテーゼを否定したあと、ボールドウィンが出してきた説明は、地理とか疫学とか、多原因的な話になっているが、それはおいておく。

AIDSの書物は、それぞれの国家のAIDSの政策は、path-dependent であったということが中心の議論である。つまり、公衆衛生のあり方についての「深い記憶」が、現在の政策をつくる主要な原因であり、その記憶は19世紀のコレラや梅毒に対する対応から作られたのである。「右か左か、保守か革新かという問いは、現在の政策を説明できる枠組みではない」という議論である。