櫻井図南男「精神薄弱の概念に就いて(産業と精神薄弱の問題)」『福岡医学雑誌』36(1943), no.8, 808-816.
のちに九州大学の教授となる櫻井図南男の論文。当時の所属は、九州帝国大学と三井産業医学研究所神経科とある。この段階では、ドイツの学者の議論のまとめが主であるが、このまま続行されていれば水準が高い研究になったであろうことを感じさせる論考である。
のちに九州大学の教授となる櫻井図南男の論文。当時の所属は、九州帝国大学と三井産業医学研究所神経科とある。この段階では、ドイツの学者の議論のまとめが主であるが、このまま続行されていれば水準が高い研究になったであろうことを感じさせる論考である。
歴史的にいって、この論文の大きな特徴は、戦前のドイツと日本において精神薄弱が定位された文脈の違いを浮き彫りにしていることである。ドイツにおける優生学と断種政策を通じて、断種の対象としての精神薄弱の境界線をどこで引いたらいいのかという問題が鮮明になり、ドイツの学者たちは遺伝研究と精神病学の哲学的な分析を駆使して、精神薄弱の本質にせまろうとした。櫻井の論文の前半では、ドイツにおける研究の概観が行われている。論文の後半は、日本の労働動員の文脈の中で、精神薄弱を位置づけるにはどうしたらいいかという議論になっている。やや驚くべきことは、この二つの大きく違う文脈・アプローチは、精神薄弱の程度としては重度ではなく、正常人との区別があいまいな境界域の人々が問題としてクローズアップされているという共通点を持っている。
クレペリン以来の精神医学者による「精神薄弱とは何か」というシャープが議論が展開されて、精神薄弱と痴呆というのは著しく異なった状態ではなく明確に分けることには意味がないこと、同じことが精神薄弱と精神病質についても言えることなどが論じられる。「精神薄弱と精神病質の病像が、定型から離れるにしたがって混淆することはむしろ当然である」。さらに、精神薄弱と正常における能力低下との間にも、重なりあいがある。ドイツにおける優生学と断種政策は、精神薄弱の境界をどこに定め、どこで断種するかしないかの線を引くべきかという問題を鮮明にした。重度の精神薄弱で「白痴」にあたるものは問題ない。議論しなければならないのは、正常人の低格に近い精神薄弱である。グラフでいうと、正常と低能がかさなりあっている部分である。
日本においては、断種ではなく産業動員が、櫻井が精神薄弱の問題を研究する背景であった。「しかるに産業界における最近の趨勢は、あらゆる人的な資源の極度の利用と駆使とを必要とするに至った。いわゆる猫の手も借りたい状態なのであって、いわんや人間である以上、低能だろうがなかろうがそういうことを問題にしてはおれないのである。かくて今やすべての産業に、多かれ少なかれこの種の低格的な素質不良者の混入を見るようになった。これはちょうど、一度沈殿したものがあおられて、再び全部にごったようなありさまであり、決して軽視できぬ事実なのである」。そして、この動員で問題になるのは、重度ではない精神薄弱が作業の場において常人と混じることである。白痴の場合は、これは誰でもわかるから問題ない。しかし軽度の場合は、素人には分からないから注意が必要である。つまり、精神薄弱者を労働に向かないとして排除するのではなくて、彼らがどのような仕事ができるか、適性決定をするのが精神医学者の役割ということになった。この事態をさして、「変態的な問題」と櫻井が呼んでいるのは、これは櫻井が信じているあるべき形とは全く違うことに対する批判が込められていると考えていいだろう。