Harris, William V., Dreams and Expeerience in Classical Antiquity (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 2009).
古典古代の夢について、包括的な構造を持った理論的な枠組みで考察しようとしている野心的な著作であり、同時にフロイト理論をはじめとする夢についての心理学的な解釈から健全な距離を取っている良心的な著作である。優れた古典学者だから、無数の文献を引用して議論をしており、この書物は手元に置かなければならない。
夢の歴史については、二種類の問いを立てることができて、最初の問いは「古代の人は夢をどう解釈したのか?」というもので、これは資料としては、歴史資料に書いてあることをそのまま素材にすればいい部分が大きい。たとえばアルテミドロスの夢判断の書などは、まさにそのように使える素材であるし、アリストテレスやエピクロスなどの著作にも夢を論じたものがたくさんある。これらは夢に対する考えが書きとめられたものであり、これらを素材として夢についての思想史を行うのは、方法論的にはあまり問題ない。
しかし、「古代人はどんな夢を見たのか」という問いは、それよりもはるかに方法論的に慎重にならなければならない、手強い問いである。この問いが歴史学的に手強いのは、夢は内的経験であり検証できないという問題もあるが、それよりも大きな問題は、歴史資料に記されている、古代人が見たと<される>夢の中から、オーセンティックな夢の記述、彼らが<本当に見た>夢の記述を選び取ることができるのだろうか?それができるとしたら、そんな基準なのか?たとえば、現代の我々が自分の夢を語るときには、その物語は現実味を欠き、その展開には飛躍があり、登場人物の行動は非論理的であり、そこには道義的な意味は込められていない。しかし、古代の人々が見たとされる夢の記述は、そのような夢幻的で非論理的なものであることはむしろ少ない。そうだとしたら、彼らの夢の記述というのは、真正なもの、つまり彼らが<本当に見た>夢ではなく、ねじ曲げられて書かれたものだろうか。いや、彼らの夢が、我々が見る夢とは違って、論理的で現実味を持ち飛躍がないのは、彼らがそのような夢を<本当に見た>からなのだろうか。あるいは、これは先に触れた夢についての思想史の問題とも深くかかわる点だが、彼らが夢をそのような形にして書き記すことに意味があると判断していたからだろうか?あるいは、書き記された夢というのは、まさに、起きた時に記憶の中で再生した夢なのだから、そのような形に夢を記憶の中で加工したからなのか。そうすると、それこそが彼らが<本当に見た>夢ということになるのだろうか。
こういう歴史認識論・歴史資料論的な問題を踏まえて著者が展開する議論は、古典古代から近代にかけて、「<エピファニー>に重心がある夢の経験から、<エピソード>に重心がある夢の経験へと変化した」という議論である。エピファニーというのは、神が夢に顕現して何かを教えるタイプの夢であり、エピソードというのはまあ世俗的な事件ということだから、世俗化・脱宗教化の過程であるといってよい。全体としては確かに驚くような結論ではないが、議論の進め方は実証の厚みと堅牢な議論の特徴を持ち、非常に面白い。
夢についての思想史が、学問の後衛なり基盤なりとして必要なことはもちろんだが、それが知的なエッジを持っている方法論かどうかというと、私だけでなく多くの歴史学者が疑問を呈するだろう。この問題を乗り越えて、より認識論的に複雑な問題をからませて成立させたこの書物は、我々の多くが参考にするべきだと思う。
古典古代の夢について、包括的な構造を持った理論的な枠組みで考察しようとしている野心的な著作であり、同時にフロイト理論をはじめとする夢についての心理学的な解釈から健全な距離を取っている良心的な著作である。優れた古典学者だから、無数の文献を引用して議論をしており、この書物は手元に置かなければならない。
夢の歴史については、二種類の問いを立てることができて、最初の問いは「古代の人は夢をどう解釈したのか?」というもので、これは資料としては、歴史資料に書いてあることをそのまま素材にすればいい部分が大きい。たとえばアルテミドロスの夢判断の書などは、まさにそのように使える素材であるし、アリストテレスやエピクロスなどの著作にも夢を論じたものがたくさんある。これらは夢に対する考えが書きとめられたものであり、これらを素材として夢についての思想史を行うのは、方法論的にはあまり問題ない。
しかし、「古代人はどんな夢を見たのか」という問いは、それよりもはるかに方法論的に慎重にならなければならない、手強い問いである。この問いが歴史学的に手強いのは、夢は内的経験であり検証できないという問題もあるが、それよりも大きな問題は、歴史資料に記されている、古代人が見たと<される>夢の中から、オーセンティックな夢の記述、彼らが<本当に見た>夢の記述を選び取ることができるのだろうか?それができるとしたら、そんな基準なのか?たとえば、現代の我々が自分の夢を語るときには、その物語は現実味を欠き、その展開には飛躍があり、登場人物の行動は非論理的であり、そこには道義的な意味は込められていない。しかし、古代の人々が見たとされる夢の記述は、そのような夢幻的で非論理的なものであることはむしろ少ない。そうだとしたら、彼らの夢の記述というのは、真正なもの、つまり彼らが<本当に見た>夢ではなく、ねじ曲げられて書かれたものだろうか。いや、彼らの夢が、我々が見る夢とは違って、論理的で現実味を持ち飛躍がないのは、彼らがそのような夢を<本当に見た>からなのだろうか。あるいは、これは先に触れた夢についての思想史の問題とも深くかかわる点だが、彼らが夢をそのような形にして書き記すことに意味があると判断していたからだろうか?あるいは、書き記された夢というのは、まさに、起きた時に記憶の中で再生した夢なのだから、そのような形に夢を記憶の中で加工したからなのか。そうすると、それこそが彼らが<本当に見た>夢ということになるのだろうか。
こういう歴史認識論・歴史資料論的な問題を踏まえて著者が展開する議論は、古典古代から近代にかけて、「<エピファニー>に重心がある夢の経験から、<エピソード>に重心がある夢の経験へと変化した」という議論である。エピファニーというのは、神が夢に顕現して何かを教えるタイプの夢であり、エピソードというのはまあ世俗的な事件ということだから、世俗化・脱宗教化の過程であるといってよい。全体としては確かに驚くような結論ではないが、議論の進め方は実証の厚みと堅牢な議論の特徴を持ち、非常に面白い。
夢についての思想史が、学問の後衛なり基盤なりとして必要なことはもちろんだが、それが知的なエッジを持っている方法論かどうかというと、私だけでなく多くの歴史学者が疑問を呈するだろう。この問題を乗り越えて、より認識論的に複雑な問題をからませて成立させたこの書物は、我々の多くが参考にするべきだと思う。