大西香世「麻酔分娩をめぐる政治と制度―なぜ日本では麻酔による無痛分娩の普及が挫折したのか―」『年報 科学・技術・社会』21(2012), 1-35.
興味深い問題を設定し、興味深い視点からリサーチして答えようとした優れた論文である。その途上で明らかにしたことや洞察は貴重であり、優れた論文である。しかし、残念ながら、著者が自らに課した問題のコアが解明されたという印象は持てなかった。問題設定などを少し工夫すればよかったのに。
興味深い問題を設定し、興味深い視点からリサーチして答えようとした優れた論文である。その途上で明らかにしたことや洞察は貴重であり、優れた論文である。しかし、残念ながら、著者が自らに課した問題のコアが解明されたという印象は持てなかった。問題設定などを少し工夫すればよかったのに。
著者が自らに課した問題は、論文の副題にあるとおり、「なぜ日本では麻酔による無痛分娩の普及率が低いのか」である。「硬膜外麻酔による無痛分娩」について本論文であげられている数字をみると、アメリカとフランスでは60%、AUは25%、ドイツ、スウェーデン、シンガポールが10%、イタリアが3-5%程度、日本は2.6%である。
この事態の理由としてこれまで挙げられてきたのは、主に文化的な要因であった。産婦や夫にとって痛みは通過儀礼であり母性の徴であり、産婦人科医たちにとっては正常な分娩の記号であった。著者の大西はこういった研究や立論には限界があるといい、それに代わって医療従事者の利害紛争に由来するモデルを提示するという。議論の基本は、産婦人科医と助産婦の両者に着目し、前者が戦争後に優生保護法を軸に利益集団を形成した野に対し、それに圧迫された助産婦たちは対抗するために「自然なお産」運動を推し進めていったという説明である。日本の助産婦たちの運動は、欧米における<自然なお産>運動に影響を受けていたが、欧米では病院による出産がすでに確立されていたのに対し、日本においては、この時期はお産の場が自宅から病院に移行する前の時期であった。麻酔による無痛分娩が普及するための臨床的インフラが整う前に、自然なお産運動が始まってしまったのである。<だから>日本では無痛分娩が普及する「機会の窓」が失われ、現在でも少ないという議論である
冒頭に触れたように、私はこのような議論は好きである。精神医療のことを考えると、思い当たる節はたくさんある。インフラの状況が違うのに欧米の流行を追う、クロノロジーのギャップの問題は重要であるといつも思う。医師と助産婦という複数の医療従事者に注目したのもいい。それ以外にも読んでいて多くの洞察がある。そのすべてを称賛し高く評価したうえで、この論文は、自らが設定した課題に応えていない。批判するべき点は多いが、一番大きいのは、<国際比較において日本は低くアメリカとフランスは高くAUは中くらいである>という問題設定から始まった論文であるのに、それからは純粋に日本だけの議論となっていることである。冒頭で、文化論者を批判するのに、「文化的アプローチでは、同じ文化圏あるいは宗教圏における麻酔による無痛分娩に普及率の相違を説明することが難しい」と颯爽と語ったので、「機会の窓」アプローチでは普及率の相違がどんな風に説明できるのかと思って読み始めた。しかし、アメリカやフランスやAUで、いつどんなタイミングで上下したのか、そこにどのような医療従事者の政治があったのかという過程が全く議論されていない。(ついでにいうと、日本の上下のデータも与えられていない)そういう議論運びをするのなら、さっそうとしなくてもいいから、国際比較の問いを設定するのを止めればよかったのに。