『家畜人ヤプー』

家畜人ヤプー
必要があって『家畜人ヤプー』を読む。1956-59年に雑誌『奇譚クラブ』に20回にわたって連載されたオリジナルは、恥ずかしいことに読んだことがなく、手元にあるのはいずれも単行本で、オリジナルに一章を足した1970年の都市出版社版、それと内容がほぼ同じスコラ版、そしてそれにさらに20章くらいを加筆して大幅に増量して完結させた幻冬社アウトロー文庫の5巻本である。コミック・劇画化やラノベ化されたものもあるようだが、私はいずれも読んでいない。

ヤプー』はもちろんSM, 特にマゾヒズム文学の古典中の古典になっており、その視点からも論じられるべきであるが、それと同じくらい重要なのが、20世紀中葉の国際政治と社会の状況の中で、当時の科学技術と医学の方向性を投影させて書かれたSFであるということである。『ヤプー』が語るのは、20世紀の医学と医療技術、その生理学と外科学の発展であり、また20世紀の人種論である。それらの科学的な主題が、日本の敗戦と冷戦下の国際緊張のセットの中で語られる。あまり言及されることは多くないように思うが、おそらく非常に重要な主題が、医療技術をその身体に受ける対象となる人物と、それを通じて恩恵を享受するもの分離の問題である。『ヤプー』の主題を一言で表せば、科学技術・医療技術が日本人の身体に向けられてグロテスクに身体改変され、それを通じて身体に手が加わっていない白人が恩恵を享受している世界である。

話は地球が核戦争と細菌兵器という科学技術兵器によって地球の人類が壊滅的な被害を受けるところから始まる。日本は核攻撃の直接の対象ではなかったが、放射能の影響により白痴と畸形ばかりの滅亡した国となり廃墟化していく。細菌兵器はその効果が人種によって違い、白人の致死率が黒人よりも高いので、細菌兵器の攻撃を受けた北米では黒人による権力の掌握が起きる。前者は放射能医学、後者は人種医学やマラリアへの抵抗力の人種差、梅毒の発症率の人種差などの議論に起源があるストーリーであろう。宇宙に移住して別の惑星を征服して帰ってきた白人のマック将軍が地球を再征服したあとに、白人―黒人―日本人というの人種制度が作り上げられるが、その時に日本人家畜理論を提供したローゼンバーグというのは、もちろんナチスの人種イデオロギーの中枢であり、戦前の日本でも盛んに翻訳されたアルフレート・ローゼンベルクである。このような、20世紀中葉の先端医学、人種医学、優生学が基本的な装置となっている。

ヤプー』の舞台である「イース帝国」の人種差別は、科学技術の適用を通じて、すさまじい形に到達した。排泄と栄養の科学と技術は、黒人や日本人の身体に向けられて、上位者の糞尿を下位者が身体で受け止めて栄養として吸収して、喜悦の涙を流すというのは、日本人の身体が白人の下水道として整備されるという下水道整備の言説を身体化したものである。作品の中で重要な役割を果たしたのは日本人の腸内に寄生虫を植え込むことで、この背景には当時の日本の学校衛生で重要だった回虫や蟯虫の脅威の問題があるだろう。いちいち調べてはいないが、作品の中で想像された多くの外科手術に付された説明は、まさに「外科学の世紀」としての20世紀の医学の進歩の話題であったと思う。