清代中国の医学

多々良、圭介. "清代における「病」への対策." 生活文化史, no. 65 (2014): 18-34.
 
中国では医療従事者のことを「医生」という。清代には、病気が治せると宣言する人は、誰でも医者として受け入れられた。医療市場が活発化して、商業化が進んでいた時代であった。患者の治療に先立って、前金として医者に支払い、診療後に残金を支払う仕組みであった。これは「包医」と呼ばれていた。前金は数分の一という感じの額であった。公権力は民衆の日常的な病への介入には消極的で、医生への就業規定が存在しなかったことも、このような態度の一環である。
しかし、有事の際には公権力は発動した。具体的には疫病のときである。医官は府・州・県にわずか1人ずつであったので、疫病に襲われた地域をカバーするには、民間の医者を使うしかない。しかし、民間人の医生は、文盲同然であり、「私はわずかに<之無>が読めるだけです、どうして医書が読めましょうか、読めなくて何かおかしいですか(菅官房長官 笑)」というありさまだった。だから、考試で選抜したり、監獄の罪囚の治療で功績のあった医生などである。
この人物たちには「舟輿」が払われた。これは日本でもかつて使われていた、診療費以外に医師に払う「お車代」であると説明されている。ちなみに、その説明から、「舟輿」の二番目の漢字を推測しました。これは「しゅうよ」とよみ、船と車という意味。この単語は漢和辞典に掲載されており、中国語にたしかに存在する単語だが、私が正しく読めているかどうか自信ないです(涙)
疫病の時には、民間信仰が強くなる。ことに「五通神信仰」があり、その山を曰く肉山、その下の石湖を曰く酒海という。コレラが流行した時には、屍が変化して鬼になり、人を脅す怖いキョンシーになると信じられていた。このような民間宗教を制御することも公権力の仕事であった。