明治の精神病女で岡倉天心の愛人であった星崎波津子の「巣鴨病院再入院申請書」は贋造書類なのか?

南富鎮. 松本清張の葉脈. 春風社, 2017.
 
星崎波津子という人物がいる。もともとは花柳界の出身で、結婚は文部官僚で貴族院議員となった九鬼隆一に嫁ぎ、哲学者の九鬼周造の母である。九鬼との結婚はうまくいかず、岡倉天心と恋に落ちて同棲したが、天心とも結婚することはなかった。九鬼周造の随筆に、波津子と天心が幸福そうに同棲する家にいたありさまを美しく描いたものがあり、岩波文庫に入っている。
 
波津子が東京の精神病院で人生のかなりの部分を送ったことは事実である。巣鴨病院と松沢病院の私費患者として過ごしていた。巣鴨病院に再入院するときに、九鬼隆一らが再入院を願い出て作成して巣鴨病院に提出した文書の写しとして、松本清張が著作『岡倉天心』の冒頭で用いている長大な史料が「巣鴨病院宛星崎波津子再入院申請書」である。波津子が起こした数々の問題、九鬼たちの鎮静の懇請と制御の失敗、東京の街中での精神病患者の捕り物のような記述など、非常に劇的な記述である。ただ、清張が見てから、その文書の所在が分からないらしく、他の研究者は用いていないか、ごく控えめにしか言及していない。私も熱心に読んだけれども、それが真正な記述か清張の創作かと聞かれると、正直言ってわからない。現物が見つかっていないというのは、清張の創作を思わせるが、あのような劇的なドラマ性を持つ記述に類するものは、私が読んでいる精神病院の史料にも含まれていることがある。入院時の患者に関する記述というのは、もちろん総じて落ち着いているが、中には興奮するべき事件を起こして入院する患者もいるし、家族の側が問題処理に疲れ切っていたことをうかがわせる患者もいる。
 
しかし、実佳の同僚の静大の教員で、この問題に関してお話を少し伺ったことがある南先生は、「巣鴨病院宛星崎波津子再入院申請書」は怪文書であるといい、カッコの中で「存在が確認できず清張による創作の可能性がある」と述べている。そういわれると、推理小説などで清張が仕掛けている謎ときを思わせるところもある。
 
とても面白い文書で、Kindle でも読めるから、興味がある方は是非読んでみるといい。もちろん、清張の創作であるとしたら、面白く仕上げているに決まっているけれども。