中村一夫という精神病医の『自殺論』に津山事件についての素晴らしい説明が入っていたのでメモ。
津山事件は昭和13年に岡山県の西加茂村で起きた大量殺人事件。都井睦夫という21歳の青年が、深夜に同居していた祖母を皮切りに、同じ貝尾部落の人々を銃と日本刀で30名以上を死傷させ、最期には自ら自殺した事件である。詳細な研究やルポルタージュの対象になっている。私が読んだ範囲では、筑波昭『津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇』 (新潮文庫、2005)が非常に優れた作品であり、岡山の農村と大阪のメディアを接続した空間に作り出したあたりが素晴らしいと思っていたが、かなりの部分が筑波によってねつ造されているらしいとのこと。うううむ。より優れた石川清が2011年に刊行した研究を読んでみよう。
中村一夫の記述は、戦前の精神医学の優れた特徴である、患者の行動を確実に理解して的確に記述するありさまが鮮明に表れている。中村は東北大学と東京大学で精神医学を学んでいるが、津山事件論を学んだのが、吉益修夫という戦前の精神病医で数少ない国民優生法の支持者であり、その影響がある。
ことに重要なことは結核の診断の影響である。津山事件は青年による大量殺人でよく意味が分からなかったが、結核の診断が大きな役割を持ったこと、それも都井自身だけでなく村や部落にとっても重要だったありさまがよく分かるように書いてある。都井は裕福な農家に生まれたが、生後2年付近に父親と母親の双方が肺結核で死亡して、祖母に引き取られた。尋常・高等のどちらの小学校でも秀才であったが、高等小学校を卒業する前後に、肋膜炎を患うことと、上級の学校に進学することをあきらめるという二つの事件が重なって起きた。この肋膜炎という診断の周囲に肺結核の可能性が強く表れていた。その後も肺結核の診断や危険などが常に人生に現れていた。決定的な重要性を持ったのが、昭和12年の徴兵検査の折に肺結核と診断され不合格だったことである。国民として男性として徴兵検査で結核と診断されて不合格となることは、非常に屈辱的であり人生の根本を否定されることであった。この徴兵検査での診断の前後から、部落の複数の女性との乱れた性交渉が始まる。都井にとっては結核の診断が自らの人生を否定していくのに大きな意味を持っていた。
一方で、村や部落の側にとっても、肺結核である個人は大きな意味を持っていた。中村が昭和38年に訪問したときには、近隣の村で結核を病んだ元患者や、当時の加茂町の町長によると、共同体が結核の患者に示した嫌悪は非常に強かったという。具体的に意地悪はされないが、結核筋(けっかくすじ)の家は敬遠されていた。加茂町の町長は、家で敬遠することでなく結核の検査を保健所で行うことのメリットを強調しているが、私に言わせると、結核を治療することができるようにならなければ、結核検査はハンセン病検査と同じような機能をフルに果たすようになり、結核筋へのある意味での嫌悪は強くなり、巨大な結核収容所に人々を送り込むというプランは実現しなかったことであることを考えておくといい。ちなみに、結核とハンセン病を並べているのは中村か元患者か町長か、よくわからない。