先日京都に行って桂離宮を楽しみ、ブルーノ・タウトのことを思い出したので、『日本 タウトの日記』を読んでみた。1933年に日本に亡命し1936年にトルコに移住するまでの日記である。病院の建築について何か言っていないかと思って眺めてみたけれども、患者と自己と身体と疾病という重要な点に関してとても重要なことを書いているのでメモ。
日本滞在中に色々なことを書いているが、1936年になると喘息を訴えるようになる。その喘息は非常に症状が重く、薬が必要である。アドレナリンを注射してもらうと、「今まで咽喉をしめつけていた指が急に離れでもしたかのようにさっぱりする」という感覚を得る。それを、「二人の<私>というものを感じた、つまりいま一人の<私>が元からの<私>の上に水平に重なって淀んでいるような感じである」という。「とにかく心理的に絞め殺されるような気持ちだ」という。そして、「この不安が原因になり、今度は口をぱくぱくさせながら痙攣的に息を吸込むようになると、もう発作の立派な症候である」という。
これが原因になって、結核と精神疾患の問題を取り上げる。1936年の8月であるが、築地の聖路加病院で大野博士の綿密な診察を受ける。面白いことに、レントゲン検査をすると、肺に結核感染の痕跡が二か所あり、いずれも全治はしているが、瘢痕が残っていると聞く。タウトとしては一驚を喫したとのこと。いったい肺結核になる原因があっただろうか。私はこの病気に掛かった憶えさえない。こうなると迷信にでも頼りたい気持ちになる、という。
そして8月の末に、精神疾患の問題にはいる。「まるで気でも狂ったように鳴きたてる蝉」が背景になり、ジャパン・アドヴァタイザーという新聞で、日本の精神病者に関する記事が載っていたという書きだして、1930年代半ばの日本の精神医療の状況を書き留めたあと、日本には、何か精神に故障があるのではないかと思われる人が、知人にもいるような気がしてならないという記述がある。こちらからの手紙に返事をよこさないのに、あとでたまたま会うと、また親友のように振る舞うのは、きっと精神的故障の所為に違いない、と書く。そして、それをスウェーデンの反対であるというように書く。この部分は読みにくい箇所である。「こちらからの手紙に返事をよこさないのに、あとでたまたま会うと、また親友のように振舞うのは、精神的故障の所為に違いない」というのは、激しく反省した。