『風立ちぬ』と『魔の山』とレントゲン線

結核サナトリウムを舞台にした文学は、日本でも世界でも数多く書かれていて、いくつかの有名なものは読んだ。日本と外国でそれぞれ最も有名な結核作品である、堀辰雄風立ちぬ』とトーマス・マン魔の山』は、どちらもレントゲン写真が重要な小道具に使われているが、その作品の中での機能が全く違う。『風立ちぬ』では、疾病の身体性から物語が切り離されて、患者の病んだ身体が透明化されるように描かれている。レントゲン写真が伝える診断上の情報と、それを主人公に伝える医師の言葉が伝えられる箇所があって、そこではレントゲン写真の画像は「不思議な花のような映像(イマアジュ)」という現実から切り離された意味合いを帯びていき、重症だと告げる医師の言葉は耳の中でがあがあ鳴る音になっていくと書かれている。レントゲンが映し出した患者の身体の内部と、それを解釈した医師の言葉は、まるで現実から切り離されていくような描写である。そして、主人公と患者が作り出す生活は、身体を持たない、精神だけに昇華されて透明感があるようなものになっている。

 

こんなことを考えたのは、『魔の山』が作り出す、『風立ちぬ』とは対照的な、具体性と重みをもつ診断と疾病とレントゲンの世界についての、素晴らしい分析を見つけたからである。この書物の一章は、大学院で読ませよう。

 

Sara Danius, The Senses of Modernism: Technology, Perception, and Aesthetics (Ithaca: Cornell University Press, 2002).