『ブラタモリ』と渤海からの感染症の侵入

私が見るTV番組にNHK の(おそらく)人気番組の『ブラタモリ』がある。土曜日の晩ごはんを食べて、お茶を飲みながら楽しい番組を見る。今日は秋田がロシアや渤海と深い関係があるという話だった。その中でちょっと本気になった話題がある。

ポイントは古代の時期、ことに平城京の時代の日本における感染症の移動の向きの話である。天平天然痘は福岡から入って都の奈良に向かった。これは日本国内の西から東への移動である。

一方で、その反対に、ある感染症渤海から秋田にはいり、そこに基盤を持ってから東から西に移動したと考えたほうがよく分かる記述がある。かなり長い文章なのだが、以下のようなものです。

 

律令制度とサーキットの確立>


天平天然痘は、律令制のもとで確立していた、それぞれの「国」の国衙を中央と結び、国の中では、国衙と「郡」を結ぶ行政と交通の機構によって、全国に伝播したと考えられる。詳細は不明であるが、防人の移動も貢献したのかもしれない。また、『続日本紀』の記述から判断するに、西から侵入して東へ移動したことは疑いない。疫病がたどったルートは、朝鮮半島から玄界灘沿岸にいたり、そこから瀬戸内海を経て河内湖にいたる海上交通のルートとほぼ重なっていた。このルートは、大和政権や奈良時代律令国家にとって、その存在基盤を支えるといってもよい重要なルートであった。鉄の精錬などの高い技術やその技術を用いた産物が、このルートを通って難波を経て京(みやこ)へともたらされ、京から濃尾平野からさらに東へと輸送されていた。

大陸や朝鮮半島から九州・西日本に感染症が侵入するというパターンは、その後の流行でも繰り返された。後述する760-763年(天平宝字4-7年)の天然痘も、西から東へと移動し、正暦5年の天然痘も、九州北部から侵入して、全国に広まった。後者の記録には「鎮西より起こってあまねく七道に満ちた」とある。この流行の時には、平安京の死者は人口の半分以上であり、宮廷においても、五位以上の官人が67人死んだという。おおまかにいって、この「西から東へ」というベクトルは、19―20世紀に到るまで、外国から侵入した疫病の基本的なパターンとなる。


しかし、古代の疫病の中には、これとは違う経路で広まったものもある。その一つが、698年からほぼ10年間連続して各地で記録されている「疫」である。この「疫」が、一つながりの疫病であると仮定すると、それは「西から東へ」というなじみ深いパターンとは反対の、「東から西へ」という動きを示している。


この疫病の記録は698年にはじまる。その年に越後が疫病を報告し、薬を施してこれを救うという『続日本紀』の記事である。同年に、近江と紀伊の二国も疫を報告し、医薬を与えている。(図x-1) 699年から704年まで、701年をのぞいて毎年、各国が疫を記録しているが、これは、信濃(4回の記録)、上野(3回)、相模(2回)、越後(1回)など、東日本の諸国からの報告が主体になっている。(図x-2)


705年(慶雲二年)に疫病はより広範な範囲に広まった。記録には「諸国二十、飢疫」とあり、医薬などを与えたとある。706年(慶雲三年)には、年頭の記事から、疫病が京・畿内三河駿河などに広がっていることが記され、夏四月には、河内、出雲、備前、安芸、淡路、讃岐、伊予など、山陽・山陰、四国地方から疫病の報告があがっている。この年は「天下諸国に疫病があり、人民が多く死んだ」と記され、疫病を祓うための土製の牛の像を初めて作り、宮城に据え付けられた。707年(慶雲四年)にも疫病は続き、諸国に人を遣わして大祓いをしている。このときは、丹波・出雲・石見の山陰地方でとくに疫が激しかったという。708年にも疫は続き、讃岐、山城、備前、但馬、伯耆など、中国地方と山陰地方に集中している。すなわち、705年の広範な疫病の記録(「諸国二十」)のあとの706年から708年にかけては、疫病は京・畿内およびそこから西に起きている。(図x-3)なお、この碁、709年から713年にかけても疫病の記録があるが、それらは、上総、下総、越中信濃尾張駿河紀伊、志摩など、東日本に回帰する動きを見せている。

この、698年に越後で最初に記されてその後数年は東国に根付き、705年から京と畿内、そして山陰・山陽・四国で観察された疫病、すなわち「東から西へ」移動したかのように見える疫病を、どのように説明すればいいのだろうか?もちろん、これらが同じ疫病であることを示す証拠はない。しかし、その伝播のパターンは、偶然の産物とするには余りにも鮮明である。だとしたら、この疫病は、どこで発生したのだろうか?海外で発生したとすると、どうやって日本に入ってきたのだろうか? 色々と可能性を考えることもできるが、それらは現状では憶測にとどまらざるをえない。

この東から西へ伝播した疫病が教えてくれる確かなことは、日本の中に、感染症がいったん侵入すれば、それを各地に伝播するサーキットが出来上がっていたことである。このサーキットを作り上げていたのは、律令制によって結ばれた各地と都との交通、そして、それぞれの国における国衙と末端の郡村の間の交通であろう。すなわち、租庸調を都や国衙に運び、平城京国衙国分寺の造営に駆り出され、防人として動員され、そして自分の村に帰って行った農民たちが、感染症を運んだのであろう。市場経済に基づく移動が未発達であったとしても、中国にならって作り上げた中央集権の政治体制は、感染症を伝播する網目を日本の国内に作り上げていたのである。