シーボルトとネットワーク


 マシューズ関係の本の書評も終わって、医学人名辞典の編集と項目執筆の仕上げに入っている。シーボルトについて書くために、呉秀三の一連のシーボルト研究を読む。近年の人文社会系の医学史の研究者には、狭隘な民族主義者が意外に多くて、「問題意識を共有していない」とか言って、医者が書いた医学史を頭から軽視してかかる傾向に出会うことがある。確かに底無しに質が低い論文や学会発表は、現在の「医者の医学史」に多いのかもしれない。しかし、医者が書いた医学史の名著が多いこと、彼らの仕事なしには私たちの現在の仕事はありえないことを、私は痛感している。呉秀三シーボルト伝もその一つだろう。
 その中で面白かったのは、居留地をベースにした情報や文物の交換である。シーボルトの自然誌活動のかなりの部分-大半といっていいかもしれない-は、彼の日本人の門人たちやカジュアルな知人たちが担っていた。大目に見られていたとはいえ、活動が制限されていたシーボルトにとって、自分に代わって情報や標本や文物を集めてくれる門人や、自分のもとにそれらを持ってやってきてくれる日本人の存在は不可欠だった。シーボルトの活動の構造は、いったん許可をえれば自ら奥地まで探検できたフンボルトのそれとは違うし、居留地周辺の市場を観察して自然誌研究を行った広東のイギリス人研究者とも違う。フンボルトが、西欧自然誌研究者がイニシアティヴをとった型であり、広東の例が現地の経済活動を傍観的に観察した例だとすると、シーボルトは、自分を中心にして、自己生成するようなアクティヴなネットワークを作っていったと言えるのかもしれない。(この「自己生成するネットワーク」というのは、ただの比喩ですので・・・) 特に、1826年の江戸参府は、長崎から江戸までの旅行の先々で、現地のネットワークを活性化しながら、シーボルトを中心にしたネットワークが拡大・生成されながら移動していくさまがひしひしと感じられる。(個人的な感想で恐縮だが、これをヴィジュアルに表現したら美しいだろうな、と思う。DVDで『マトリックス リヴォリューションズ』を観た後なので・・・)
 そして、このネットワーク生成の基盤の一つになっているのは、シーボルトが持っていた医療技術、特に外科や眼科の技量である。もう一つが、日本人の珍物好きを当て込んで、シーボルト地震があらかじめ持ち込んでいた医療機器やら科学器具やらである。それから、シーボルトが感心して感謝している日本人の贈答習慣である。これらに支えられて、シーボルトは6年ほどの滞在期間中に目覚しい日本研究の成果を上げた。そう考えてみると、ほぼ30年日本に滞在し、自由に旅行できた東大医学部教授のベルツの業績は、実はそれほど大きくないのかもしれない。

文献は 『呉秀三著作集1 医学史篇』岡田靖雄編(京都:思文閣, 1982) 文中で言及した広東の例は、Fan, Fa-Ti, “Science in a Chinese Entrepot: British Naturalists and Their Chinese Associates in Old Canton”, in Science and the City, eds. by Sven Dierig, Jens Lachmund, and J. Andrew Mendelsohn, Osiris,18(2003), 60-78.