コッホの論文集


 ロベルト・コッホの論文集を読む。

 今年の授業で細菌学革命を教えた時にふと気がついたのだけれども、コッホが書いた論文というのを一本も読んだことがない。告白すると、こういう医者は沢山いる。英訳だろうが日本語訳だろうがヴェサリウスの『人体構造論』を読んだことはないし、野口英世の論文も一本も読んだことがない。ヴェサリウスはともかく、感染症の歴史の本を書こうとしているのにコッホや野口を読んだことはないのはまずいなと思って、英訳の論文集を注文していたのが届いたので、喜んで早速読んでみた。炭疽菌と結核とコレラとツベルクリンという、コッホの重要な論文が10本選ばれて英訳されて1万円くらい。安くはないが、買って損はなかった。なお、私が知る限りでは、コッホの死後1912年に編まれている3巻本の論文集(ドイツ語)が、書物としては一番まとまったものである。
 まず実感したのが、1882年の有名な結核菌の論文の不思議な性格である。この論文は、公衆衛生について直接述べることは殆どない。公衆衛生と呼べるようなリサーチは全くしていない。感染経路の確定は全て、動物実験だけの結果である。それにも拘らず、コッホはその論文で自分の発見が公衆衛生に貢献すると言っているし、またあの論文が公衆衛生に巨大なインパクトを与えたのは、改めて不思議である。シェイクスピアの作品を研究してラシーヌの本質はこうであると断じたようなものである。衛生学者が細菌学に敵意を持ったのが、とても納得できる。もう一つは、エジプトでのコレラ菌の発見を報じた1884年の論文の論理的な脆弱さである。有名な話だが、あの論文は、動物実験がなく、コッホ自身の「公準」を満たしていない。コッホがしていることは、少なくとも批判者の目から見ると状況証拠のかき集めでしかない。北里もそうだが、コッホ流の細菌学の重要なイノヴェーションは、実験技術の開発に依存するものであった、ということがよくわかる。
 ついでに言うと、その実験の記述には、時間性がない。時間の流れに沿っていないのである。3時間で観察できる現象も、ある操作をしてから結果が出るまで100日かかった現象も、同じような調子で記述されている。10分の料理番組で、「これを一日煮込むと、こうなります」と、何気なく時間の流れが破壊されているが、あの感覚と近い。患者の症例を語るときは、こうはいかないのに。

文献は Koch, Robert, Essays of Robert Koch, translated by K. Codell Carter (New York: Greenwood Press, 1987).
画像は、ドイツ語の論文集からの図版。ウェルカム図書館のコレクションより。