物語の主人公としての病原体

「病原体を主人公にした物語」の構造分析を読む。

 「病原体を主人公、あるいは重要な登場人物にした物語」というジャンルは確実に拡大し成長している。歴史の分野では、マクニール、クロスビー、そしてベストセラーになったダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を挙げることができる。ノンフィクションではプレストンの『ホット・ゾーン』はベストセラーで映画化もされたし、私の授業のテキストとしても圧倒的な人気があった。フィクション、特にSFでは、細菌の侵略ものは無数にある(らしい)。その中でも最も成功しているのは、『エイリアン』シリーズだろう。(たびたび同じ映画の話で申し訳ありません!) 病原体というにはかなりサイズが大きいが、あの映画は病原体による「寄生」という現象をめぐる寓話として読める。そして、シリーズが進むに従って、あのモンスターは「登場人物」と呼ぶにふさわしい人格を発展させている。

 歴史やフィクションやノンフィクションにおける病原体の物語は、古くて新しいパラダイムに根ざしている。かつては、病気は、人間たちを主人公にした物語の中での静的な仕掛けに過ぎなかった。その病気を起こす病原体を、積極的に行動する登場人物に据えたという点で、これらの物語は目新しい。一方で、これらの物語のプロトタイプは非常に古い。人間の外にある、何か人格と呼べるようなものを持った実体が、人間に侵入することによって人間は病気になるというパラダイムは、非常に古く、そして古めかしい。古典古代の呪術的な医学、ルネサンスの悪魔祓いといった、当時から「迷信的」であると攻撃されることが多かった医療と同じパラダイムである。現代の病気の物語の中の有力なジャンルは、ヒポクラテスルネサンスの医者たちが迷信的と蔑んだ病気のパラダイムに従っている。私たちはそのような「迷信的」な物語を消費している。

 この論文の焦点は、病原体の物語が、かつての人間中心主義的な物語とは根本的に異質であり、それを脅かすものであることに焦点を当てる。「病原体の視点から見た世界」という語り口が、もともと極めて珍しいことはいうまでもない。それ以上に重要なのは、その物語に出てくる人間というのは、たとえ病気に打ち勝つときでも、意思的な行動によって打ち勝つのではない、ということである。そこでは、人間の自由意志の役割は極めて限定的なものになる。それにかわって、身体に備わっている免疫機構が主役になる。人間の意志とは全く離れた、免疫学的な<自己>が、病原体と闘う物語である。一言で言って「英雄がいない叙事詩」という新しい形式の物語である。

文献は、Belling, Catherine, “Microbiography and Resistance in the Human Culture Medium”, Literature and Medicine, 22(2003), 84-101.