放浪する狂人2


 しばらく前にたくさん借り出した辻潤についての本で、読み残しがあったので目を通してみた。文献は折原脩三『辻まこと・父親辻潤』(東京:平凡社、2001); 松原邦之助編『ニヒリスト辻潤の思想と生涯』(東京:オリオン出版、1967)

 辻潤の調べをぼつぼつと続けている。優れた文学者や批評家たちが彼について述べている台詞の中には、精神医療の社会史を考えるときでも、はっとさせられるものが多い。今日目を引いた言葉は、高木護という研究者のものである。

「たいがいの人は [ 精神病のエピソードの後の辻潤が ] 乞食になったと書いたが、そうではなく、辻潤の苦悩の一端は乞食になりえなかったことにあるような気がする」(『ニヒリスト辻潤の思想と生涯』45ページ)

 私も含めて現代の「精神医療の社会史」の研究者たちの多くは、浮浪や貧困の問題の一つのヴァリエーションとして精神病の問題を捉えている。 もちろんこのアプローチの根底にはフーコーがあるし、こういった視点が、精神医療の歴史の重要な面を正しく捉えていることは確かである。しかし、浮浪や乞食や貧困の問題と重ならない部分もまた、狂人の処遇の歴史の非常に重要な部分である。そこに着目すると、新しい問題が立てられるのだろうな、と思った。高木が言った意味とは全く違うのだろうけど。 

画像は、イギリス民謡のヒロインで放浪する狂女、Crazy Anne. 1815年の作品より。