ある日本語の論集に寄稿することになり、編者の方針で、現代とのつながりを強く意識した歴史の論文を書くことになった。そういう仕事をしてみたいという関心はあったけど、これまでそれを正面に押し出した仕事はしたことがないので、ちょっと不安だけれどもまあ張り切っている。その関係もあって、未読山から出てきた現代の北米の医療改革にまつわる「メタファー」を分析した論文を読む。文献はSegal, Judy Z., “Public Discourse and Public Policy: Some Ways that Metaphor Constrains Health”, Journal of Medical Humanities, 18(1997), 217-231.
医学史や医学論にメタファー研究の成果を持ち込んだ研究である。ある言説が何を言っているのかということよりも、それがどのようなレトリックを用い、どのようなタームで議論を進めているかを分析することで、その言説に潜む前提や戦略や権力関係を暴こうという狙いである。私自身は、メタファーという概念よりも、語り手・聴き手の双方の姿が見えやすい「ナラティブ」という概念を使うことの方が多いけれども、語り手とか聞き手とかいうことを考えない方が良いときには、メタファーという概念も有効なのだろうと思う。
そのメタファー概念で、医療改革の言説を分析するのがこの論文の目標。1990年代の北米の医療改革には三つのメタファーを用いているという。そして、これらはどれも生物学的医学に由来するメタファーだという。それらは、身体は機械であること、医療は戦争であること、そして医療はビジネスであること。身体が機械であれば、医療の目的は外から介入して修理することになり、修理のための道具(薬や診断機器)などの開発が健康政策の最重要な焦点になるという。医療が細菌を叩くかのような戦争であれば、実体的ではない病気の原因であれ、あるいは「死」であれ、それらは共生や妥協が不可能な敵となる。医療がビジネスで、医療の結果が計測できるものでなければならず、医療に効率とアカウンタビリティが要求されるならば、患者には消費者というステイタスが与えられる。
面白く読んだが、これらのメタファーが生物学的医学に起源を持つという説得的な証拠は薄い。第三のメタファーについては著者自身もその部分の説明を放棄している。もともと、これらを生物学的医学に帰するよりも、より広い文脈に位置づけたほうが、はるかに豊かなペーパーになったと思う。引用されていた議論だが、health policy と health care policy は根本的に違うという議論ははっとした。先日の研究会で、ある報告者に質問したときに、自分が言いたいことが上手く説明できずに、余分な時間を取り、報告者にも分かってもらえなかったが、そうか、こういえば良かったのかと反省した。助産運動についてお話されたYさん、もしこのブログをご覧になっていたら、R.G. Evans and G.L. Stoddart, “Producing Health, Consuming Health Care”, Social Science and Medicine, 31(1990), 1347-1363. が論じているようなことが、実は質問の趣旨だったのです(笑)