カーマ・スートラ

 必要があって『カーマ・スートラ』に目を通す。ヴァーツヤーヤナ『カーマ・スートラ』岩本裕訳著・中野美代子解説(平凡社東洋文庫、1998)

 『カーマ・スートラ』は有名だけれども読まれていない書物の代表格だろう。私も今まで読んだことはなかったし、色々な文脈で遭遇した断片的な引用から、漠然とした敵意のようなものすら形成していた。今回読んでみて、私の敵意はカーマ・スートラが引用されていた文脈に対するもので、テキスト自体は質が高いものだと実感した。「解説」で中野美代子も書いているが、オヴィディウスの「アルス・アマトリア」によく似ている。オヴィディウスの方が遊戯性、諧謔性と軽い悪意が前面に出ていて、私は好きだけれども。

 ミシェル・フーコーが「性の科学」を持つヨーロッパ文化と「性愛の技法」を持つ日本・中国・インドなどの諸文化があると書いた時に、きっと『カーマ・スートラ』を念頭においていたに違いないが、私が読んだ印象ではフーコーの特徴づけはポイントをかなり外しているような気がする。同書は、上流・有閑階級の教養ある男性が、妻、妾、遊女などと、円滑にして有意義な社会的な関係を取り結ぶための、広い意味の性愛の技法の詳細なカタログである。悟りだとか仙人になるとかそういった形而上的な目的よりも、生活を優美にし関係をスムーズにするための快感を得るための技法であり、現世の社会の利得に奉仕する性愛の術が描かれている。

 その中でテキストの最初のほう(第二編)に現れる快感の科学についての議論ははっとして読んだ。性器の大きさで男と女をそれぞれ三種類にわけて、その組み合わせで九種類の性交がある。(解剖学的と呼べる議論は『カーマ・スートラ』には殆どないが、性器の大きさとその相性を問題にしてこの部分だけは、辛うじて解剖学的視点にかすっている議論である。)情欲が大きい少ないというのも、男と女それぞれ大中小と三種類あるから、その組み合わせで九種類の性交がある。持続時間の点でも男には速い・中くらい・遅いと三種類ある。ここでカーマ・スートラの著者にとって問題になるのは、女の持続時間にもこの三種類があるかということである。女は持続するの?そもそも<持続して>どこに至るの?という、わりと根本的な問いである。女は男のような満足感に到達し得ないという意見と、女は性交の最初から満足感に達するという意見があるという。著者はこの二つを論駁し、女も男と同じプロセスで快感を得ると結論し、持続時間の点でも九種類に分類できるとする。(結局九種類にしたいんだな、このおじさんは・・・笑)これで、性交の組み合わせは9×9×9=729種類。さすがに疲れたのか馬鹿馬鹿しくなったのか、これを列挙することは到底できないから「人はよく考えて適当な技法を用いるべきである」と逃げている。だいたいこのテキストは遵守を求めるにとてもおおらかである。書いてないことをやってもいいし、佳境に入ったらテキストを無視して良いとまで言っている。「論典に教えられていない抱擁といえども、情欲を亢進させる何らかの仕方のあるときは、性交に効果あらしめるために注意してそれを行うべきである。論典の論ずるところは人々の情欲が未だ余り興奮しない場合にのみ限られる。しかし、性的恍惚の車輪が回転するときには、論典もなく、また順序もない。」そうか、いざという時には論典の教えは全て忘れていいのか(笑)。 

 冗談はともかく、快感の速度と持続が古代インドで知的大問題になっているのは驚いた。20世紀のセクソロジストのファン・デ・ヴェルデとかマリー・ストープスなどが最も関心を集中させたのはこの点である。オーガズムのシンクロナイゼーション(平たく言うと「一緒にいく」こと)によって結婚という社会制度をより充実した強固なものにしようとしたときの彼らの問題意識と、結構重なっているじゃないか。 

 誤解がないように言っておくと、こういう小難しい話はテキスト全体のほんの一部。あとは優美で上質な性感を得るための読んで楽しい指南書である。