精神鑑定とヒューマニズム

 必要があって、刑事精神鑑定の本を読む。文献は、先日永眠された秋元波留夫による『刑事精神鑑定講義』(東京:創造出版、2004)。

 帝銀事件(S23)、島田事件(S29)、三芸プロ事件(S39)、大本教事件(T10)、連続幼女誘拐殺人事件(S63-H1)の5つの事件の精神鑑定と、秋元が手がけた10件の精神鑑定を取り上げて、それらが提起する問題点が詳しく述べられている。どれも面白いが、帝銀事件の鑑定書の分析が、私には一番読み応えがあった。著者である秋元が、自分の恩師で先代の東大精神科の教授であった内村祐之が書いた鑑定書を論破しようとする気魄がみなぎっている。

 教えられることが沢山あったが、一つだけ、秋元の歴史の認識が大きく間違っている点を指摘しておく。秋元は「精神障害により免罪となるのは・・・近代ヒューマニズムによる取り決めである」と、本書の中で繰り返し書いている。これは途方もなく間違った歴史認識である。周知のように、狂気による免罪という思想や制度は、古代ギリシア・ローマは言うまでもなく、古代バビロニアの昔から存在している。(私はその根拠になっているバビロニアの律法を読んだことはないけれども・・・笑) 日本(と中国)の律令でも、精神障害による減刑の規定は明確に定められている。秋元ほどの学者であれば、これらのことは知り尽くしているはずであるのに、何を思って史実と全く違うことを口走ったのであろうか?ここにあるのは、マイナーな史実の間違いではないし、これを指摘することは、歴史学者のぺダンティズムではない。私には、秋元が間違った歴史認識に「甘えて」いるようにしか思えない。精神鑑定をする医者は近代のヒューマニズムの産物であり、現代のヒューマニズムに貢献しているのだと「信じ込んでいる」ようにしか思えない。

 秋元は精神鑑定の結果を受け入れない法律家たち(と一般大衆)を強烈に意識して論陣を張っているが、法律家たちは精神障害による免責自体を否定しているのではないし、ましてや近代ヒューマニズムを否定しているのではない。問題のコアを単純化していえば、精神医学者たちが行う鑑定が、信用に足る法的な証拠して受け入れられるかどうかということに尽きる。精神医学者たちが行う鑑定をどれだけ信用するかという問題は、近代ヒューマニズムの精神にどれだけ共鳴するかという問題とは全く関係ない。「あなたとあなたの仲間の精神医学者たちの精神鑑定は、血も凍るような凶悪な犯罪を犯した者を免責するに足るほど、法廷と社会が信頼していいものなのですか?」という問いに、胸を張ってイエスと答えられる精神医学者がいったい何人いるのだろうか?あるいは、鑑定にとどまらず、現在の精神医学者たちの診断は、それほど普遍的なのだろうか?その普遍性を達成することが原理的にできないというのであれば、鑑定が証拠として信頼されることは原理的にないと諦めるのが道理ではないだろうか。