ECTの論争

 新着雑誌からECTをめぐる現在の論争を分析した論文を読む。文献は吉村夕里「精神医療論争-電気ショックをめぐる攻防-」Core Ethics, 3(2007), 375-390.

 1930年代に誕生したECT(電気痙攣療法、通称電気ショック)は、向精神薬が現れるまで精神病治療のひとつの柱であった。その後この治療法は衰退した。日本においては(そして外国においても)、精神医学の悪しき権力を象徴する治療法として激しく糾弾されたことも、おそらく衰退に拍車をかけたに違いない。このECTがなんとなく残存して用いられていることは漠然と知っていたが、この論文はその実態に光を投げかけ、現在のECTをめぐる倫理的な問題を分析しようとしたものである。

 ECTと反ECTの論争が顕在化した事件を二つ紹介することからこの論文は始まっている。2003年の京都府洛南病院と、2006年の全国精神障害者家族会連合会の機関誌である『ぜんかれん』における論争である。どちらも70年代に広く行われて批判の対象となった旧式のECTに較べて改善されたECTを推進する医者側と、それと対立する患者・元患者・患者家族の間で起きたものである。これらの論争が象徴する、近年のECTの「カムバック」とそれに対する批判をこの論文が分析する主な視角は「患者の意識」の問題である。木村敏らの意見を引いて、精神病の治療(そして多くの病気の治療)というのは、医師と患者が共同して行い、治療の過程が患者によって意識される「線」的なものであるべきであるという視点を導入する。それに対して、現在のECTは、麻酔下でECTをかけられ、「気がついてみたら<うつ>がきれいに晴れていた」という形で、治療の過程を患者が意識できない点に還元してしまい、患者が主体的に経験できる治療過程を奪っているという。筆者はこういう言い方をしていないが、治療の結果だけでなく「治療の質」として患者の経験が重要であるのに、復活したECTは治療の質を下げているとまとめられるだろう。

 現代でも論争になっている事象の分析だから、この論文の視点に対して、賛否両論は当然のようにあるだろう。いつものことだけれども(笑)、私にはどちらの立場についても擁護する資格はない。歴史学者として面白かったことを一つだけ。「気がついてみたらXが起きていた」というモデルといえば、麻酔が導入されたときに特に出産をめぐって大論争が起きたテーマである。さらに話を広げれば、前後不覚になった後で人格が変わっていた、あるいは新しい世界が目の前に啓かれていたという主題は、宗教的回心でも神秘的な体験でもいいが、人間が自己と世界を理解する強力なモデルになっているものの一つである。治療が無意識の点に還元されるというモデルは、しばらく前から行われている医療の形式であり(「気がついたら母親になっていた」)、あるいは「新しい生の獲得」として太古の昔から受け入れられている方式である。現代医療の最先端でも、私たちは古いモデルに合わせて理解し経験している。メアリー・ダグラスが言ったように、殺菌と「浄め」は生活世界レベルでは大差ない。それらのとECTはどこが違い、どこが重なっているのか、そういう面白い問題を私に気づかせてくれた論考だった。