ダンスホールと文明のエロス化

必要があって、モダン都市文化叢書から「ダンスホール」の巻を読む。その中のダンスホールについての扇情的な雑文が面白かった。文献は、和田博文監修『コレクション・モダン都市文化』(東京:ゆまに書房、2004) 第4巻所収の、小野薫『ダンスホール エロ享楽時代』(東京:日昭館、1931)

 すごいタイトルだけれども、巻末の出版広告によると、この書物は「性欲秘密叢書」の一冊だという。この叢書には「性欲の乱舞と女性」「変態性欲生活」「エログロ100% 女優の内幕」「サービス100%カフェー女給の内幕」といったどぎついタイトルが並んでいる。しかし、この本に関しては、題名から受ける印象と内容は微妙に違う。検閲・発禁もあっただろうが、「エロ」という言葉が何を表すかが、現代と少しずれている。

 1920年代から30年代の東京・大阪を初めとする大都市のモダン文化の一つの象徴がダンスホールであった。この書物の内容を全て額面通りに受け取ることはできないだろうが、筆者はダンスホールのことを良く知っている書き手である。基本的にはダンスホールを貶めて、どうせ性欲発露の場所だと突き放しながら、微妙に好意的なスタンスを取っている。彼がダンスホールに見出したのは、売春ではないが、見知らぬ男女が身体を密着させる場、新しい「親密性の空間」が提供されているということである。そこでは、客の相手をするプロの女ダンサーたちは、娼妓と大差ない手管を使って男を誘い、男たちはあわよくばという下心まんまんでダンサーたちに熱を上げる。売春や風紀擾乱との境界は非常に曖昧であって、その曖昧さ故に生じる、男女の哀しい愚かさを描いた、大げさにいうと文明評論である。

 例えばダンスにおける身体の密着については次のように書かれている。

「ダンスでは男の右手はサインのために女子の帯の上、背筋の真ん中に触れるのであるが、女子の快美感神経が、この魔の手のすぐ下を○○○○まで直走しているのだからたまらない。サインにことよせて、いい具合にここをなでたりおさへつけたりするものだから、○○○○○○○、あまりといえば浅ましい次第である。文明とは肉体と肉体の技巧的マスタァヴェーションに過ぎないものだらうか。疑ひなきを得ないのである」(18) (伏字は原文ママ)

 ここで使われている医学上の概念はエロジェニック・ゾーン(性感帯)の理論である。そしてそこから文明論まで広がる視点である。文明のエロス化の、すごく陳腐なパロディである。

 もうひとつ面白かった部分は、ダンスの本質は「ガラント」(gallant)である、優美さや粋で女性を良い気持ちにさせる精神である、あるいは女尊男卑の精神であるといって、この精神を「暴力」と対比させる部分である。

「ダンスの流行-無理からぬことである。暴力はガラントの反対の流儀に属するものだ。序論にいった、風刺、マルキシズム、ファシズムなんてのが暴力であって、女、文化なんてのがガラントになるのである。両者は交じり合わない。火と水のようなもので、両方共になかったらおかしなもんだから、互いに他を犯しあっては一切が暗黒となって、もはや面白くも痒くもなくなってしまうのである」(38-9)

 この時代のことを何も知らないので、軽率なことを言わせて貰うと、ここで筆者は政治の領域と、私的身体の快楽の領域の分離という問題を、少なくとも漠然とは意識している。きっと、たくさんの論考があるのだろうな。