南太平洋の麻疹

 南太平洋のフィジー諸島からさらに大分離れた辺境のロトゥマ島(Rotuma) における1911 年の麻疹流行を記述した論文を読む。文献は、Corney, B. Glanvill, “A Note on an Epidemic of Measles at Rotumá, 1911”, Proceedings of the Royal Society of Medicine, 6(1913), 138-154.

 しばらく前にアフリカの結核の論文に時にも触れたが、20世紀の初頭にvirgin soilの概念が現れて、新しい病気と文明のモデルが形成された。 それまでの病気と野蛮の同一視・文明と健康の同一視とは全く異なった、病気が文明の発展にとって不可避な部分である時間を取り込んだモデルが現れてきたのである。 時間軸に沿って文明が発展する過程において、病気と接することは、必須であるとすら理解された。 裏返すと、それを経験してない文明は、脆弱性を克服しないまま抱えている、もろい文明なのである。 

 その議論に大きく貢献したのが、それまで世界の他の地域から隔絶され、他の地域ではありふれた感染症の侵入を受けたことがない地域における感染症の爆発的な流行の観察であった。1846年のファロー島の麻疹流行や、1875年のフィジーの麻疹流行などのデータは、20世紀初頭の疫学者たちにとってすでにベンチマークになっていた。1911年に、フィジー諸島から500キロ近く隔たったロトゥマ島(当時イギリス領)で、島としておそらく初めて経験した麻疹流行が起きた。この流行は1913年にロンドンで報告された。報告者は、1875年のフィジーの麻疹流行を83年に報告したのと同じ医師コーニーである。報告後のディスカッションには、当時のイギリス疫学の指導的立場にあったハマーやグリーンウッドなども参加して、麻疹の疫学が熱心に議論された。麻疹が「モデル疾患」として定着した時期である。

 その議論の中で面白かったことを一つ。現在では、学校が小児疾患を媒介するハブになることは常識だと言ってよい。しかし、この論文が読まれたときには、医者たちの中には、この当たり前のことをどうしても信じないものもいた。文明と健康を同一視するパラダイムにおいて、小学校という文明の象徴が、感染症を広めるパソジェネティックな役割を果たすということをどうしても受け入れられなかったのである。この論文が読まれたときの議論においても、出席者の一人のC.J. Thomasなる人物は、学校は子供を集めて、感染が伝播しない空隙を作り出しているから、むしろ感染症の伝播を妨げるはずであるという珍説を展開しているほどであった。