『アルジャーノンに花束を』

 必要があって、ダニエル・キイスアルジャーノンに花束を』を読む。私は観ていないけれども、SMAPの草なぎ君(注)が主人公を演じたTVドラマが話題になったそうだ。

(注)「草なぎ君」というのは大間違いで、実はユースケサンタマリアが正しいと、siho さんに教えていただきました。 訂正いたします。 

 学習障害というのか発達障害というのか、いわゆる知恵遅れのまま32歳になったチャーリーが主人公。大学の心理学者たちは、知能を回復させ改善する技術を開発し、動物実験の結果は上々だった、手術と薬物投与を受けたシロネズミのアルジャーノンは迷路走行の天才であり、手術前のチャーリーなど足元にも及ばない迷路走行の成績を示している。

 頭が良くなると言われたチャーリーはこの施術を受け、彼の知能は数週間で劇的に改善する。施術前には60台だったIQはあっという間に180を超え、チャーリーは数十ヶ国語をものにし、難解な学問の最先端を楽々とマスターする。しかし、天才となったチャーリーの人生は決して幸福なものではなかった。彼の教師だったキニアン先生(アリス)に恋心を抱くが、過去の自分の幻影につきまとわれ、アリスを愛そうとするたびにもう一人の自分に見られているような幻覚の発作がおきて、愛を成就できない。そして、高い知能を獲得して蘇ってきた記憶は、知恵遅れだった自分をあざ笑いあくどいいじめをする友人や隣人、自分を邪魔者にして叱責する母親や妹たちの姿であった。手術を成功させた医者や心理学者たちも、功名心に満ちた俗物ぶりをむきだしにして、チャーリーを幻滅させる。高い知能と引き換えに彼が得たものは、孤立であり寂寞であった。チャーリーは高い知能と引き換えに社会性や対人能力を失ったのである。

 さらに悲劇的なことには、チャーリーの知性は、成長したのと同じ速度で速やかに減衰する運命にあった。アルジャーノンの行動からそれを察したチャーリーは、沈んでいく知性と戦いながら自分の運命を明らかにした。彼は愛を成就することができて、知恵遅れとしての生活に戻っていく。

 この小説の本当の主人公は、チャーリーの記憶である。手術後のチャーリーは、まるで記憶を蘇らせて自分自身を苦しめる装置である。記憶によってよみがえる自己像という、現代社会で最も神聖なものである<個人の記憶>を通じて学習障害を語ったところが、この小説が多くの読者の共感を呼ぶとともに、学習障害を持つ子供や大人を「自己と同じ」カテゴリーの人間として位置づけたカギなんだろうな。

 この手のことを話題にすると、大学生たちが「差別はいけないと思います」「身の回りにある差別は気がつきにくいから、気をつけてこれと闘わなければならない」とかいう、まるで小学生う中学生のような感想を口走って満足しているのに、私はいつも驚いている。さすがに、これだけ「自己化」のメカニズムを分かりやすく使っている小説なら、もう少しいい意見が出てくるだろう。とても良い教材だと思った。