ロンドンの女子医学生

未読山の中から、第一次大戦とその後のロンドンの医学校の女子医学生についての論文を読む。腹を抱えて笑いながら読んだ。Garner, James Stuart, “The Great Ex-periment: the Admission of Women Students to St. Mary’s Hospital Medical School, 1916-1925”, Medical History, 42(1998), 68-88.

女性の医療への進出はフェミニズムの興隆とともに研究が進展した分野である。女性の医学への進出についてはイギリスは大陸諸国にかなり遅れていて、ロンドンではロンドン女子医学校が設立されて女性が医者になる道が開かれていたが、それ以外の医学校が女性に門戸を開放するのは第一次大戦期であった。この論文が取り上げているロンドンのセント・メアリー病院附属医学校は、1916年に女性の入学を許可し、24年に再び門戸を鎖している。この共学への動きの直接的な動機は医学校の経営である。戦争で大量の男子人口が流出して医学生が確保できないときに、それまで懐疑的であった共学での医学教育によって経営危機を切り抜けようとした。医学校は、ロンドン女子医学校から50名学生を譲り受けて受け入れることにした。彼女たちは男子学生に較べて圧倒的に成績もよく「優等」にあたる成績を男子は15%しかとっていないのに対し、女子は49%も取っている。医学校の側も、女性学生を歓迎していた。女子用のトイレが設置され、女子学生用のコモンルームはローズピンクの壁紙と白いエナメル鏡が飾られた。ロンドンの医学校は、他の地域の医学校と違って総合大学の一部ではなくて単科大学で、法律や文学などのいわゆる文系学部の落ち着きや教養と洗練の影響がなかった。しかも、ロンドンの労働者階級が多い街区に作られたので、日本語で言う「バンカラ」な気風に満ちていた。女子学生の受け入れは、この雰囲気を微妙に変えることとなった。それまでは図書館では週に二回、学生たちによるボクシング大会が開かれていたのが、「音楽・演劇クラブ」の集まりが開催されるようになったという。セント・メアリー医学校に「文化」が導入されつつあったのである。

しかし戦争の終結とともに、男らしさの賛美はかえって増幅されてセント・メアリーに帰ってくる。戦場からの帰還兵で、昨日まで塹壕でドイツ兵を殺していたとうそぶく男子学生たちの目に、ローズピンクの壁紙とエナメルと鏡がどのように映ったかは想像に難くない。後にチャーチルの主治医となった学長のチャールズ・モランや、腸チフスのワクチンを開発したアルムロース・ライトなど、戦場を経験して筋金入りの男性至上主義者になって帰ってきた有力な教授たちも学校の雰囲気を変えた。モランやライトは、反フェミニズムのパンフレットを公刊するほどの女嫌いでもあった。この雰囲気に乗じて、男子学生たちは女子学生を入学させるのをやめて男子校に戻すように請願するが、その直接の理由は、医学校対抗ラグビー大会で成績が悪かったという理由であった(笑)。経営危機は去り、女子学生を取らなくても経営が成り立つようになった医学校は、再び女子学生に門戸を鎖すようになるのである。

図書館で開かれるボクシング大会といい、ラグビーで負けたから女を追放しろという要求といい、面白すぎる。 そこで人生を左右する訓練を受けようとしていた女子医学生たちには申し訳ないけど、コメディとしか思えない。