おなじく新着雑誌から、20世紀初頭にフランスの女性精神医学者第一号になりそこねた(笑)マドレーヌ・ペレティエについての論文を読む。文献は、Gordon, Felicia, “Convergence and Conflict: Anthropology, Psychiatry and Feminism in the Early Writings of Madeleine Pelletier (1874-1939)”, History of Psychiatry, 19(2008), 141-162.
マドレーヌ・ペレティエという女性のことは全く知らなかったけれども、とても面白い人物である。都市下層民の家庭に生まれて医師資格を持つまで社会的に上昇し、後には社会主義者・フェミニストとして活躍している。その彼女は、1900年から1906年まで精神医学の専門医になることを志して、その訓練を受けながら研究成果を論文にして出版していた。多くの論文をパリ人類学教会の機関紙に発表し、学位論文は最優等の成績をおさめて再版されるなど、順調な-というより順風満帆な-キャリアを作っていたが、1906年に精神医学の専門医になるための試験に落第する。優れた成績を収めていた彼女が試験に落第したのは、試験のための準備が十分にできないような時期に試験を設定されたという事情がある。この背後には、彼女の急進的な政治思想や、あと、彼女自身が後に回想しているように、女性であるため男性医師たちに妨害された可能性があるが、この論文は、男性による妨害説には慎重な態度を取っている。いずれにせよ、彼女は専門医の道を絶たれて一般医として、郵便通信局の職員相手に夜間勤務の医者となるが、このことで彼女のエネルギーは社会主義・フェミニズムに向けられ、社会活動家として重要な役割を演ずることになる。この論文は、もし彼女が精神医学の専門医になっていたら、地方の精神病院の仕事は彼女に向いていなかったのではないかという考察までしているが、そうかもしれない。
トリヴィアを一つ。インターン時代の1900年に彼女が出版した論文は、男女の頭蓋骨を分析して、男性の脳が女性の脳より発達しているわけではないという、いかにもフェミニストらしいことを論じているが、このときに使われたのは日本人の頭蓋骨だったそうだ。
ベルツを始め、日本を訪れた外国人医師たちは盛んに日本人の人骨を集めていて、ペレティエが使ったのも、そのような人骨の一つなのだろう。明治初期から中期にかけてコレラが流行したときに、患者を避病院に送ると生肝を抜かれて外国人に売られるなどという流言飛語があって、民衆は恐れて患者を隠蔽したのは有名な話である。避病院の医者が生肝を抜いていたかは別にして(もちろん証拠はないが、私はその可能性は軽々に否定できないと思う)、日本人の身体のフラグメントを医学研究目的で外国に送るルートがあったのは事実である。アイヌや満州人の人骨などを日本人医師が大量に集めたのと同様であろう。そのルートがどのくらい太いものだったのか、そして民衆の恐怖がどのくらい事実に基づいてそれを膨らませたものなのかは、わからないけれども。