パラケルスス伝・1

必要があって、16世紀のヨーロッパ最大の異端の医者、パラケルススの伝記を読む。文献は、大橋博司『パラケルススの生涯と思想』(東京:思索社、1988)

告白すると、歴史上の医者で私がもっとも苦手にしているのはパラケルススである。学生時代に、先生もよく授業で取り上げられたし、色々と本も読んだのだけれども、悲しいことについに理解しなかった。他人のせい、特に難解な神秘主義・錬金術の概念がふんだんにもりこまれ、象徴的な読み方をしなければならない著作を書いたパラケルススのせいにしたくなるところだけれども、まあ、基本的には、私の怠慢と形而上的な想像力が欠如しているせいである。しかし、パラケルススのことは分かりませんと済ませているわけにもいかない状況になって、しばらくパラケルススの入門書や研究書を読む。

大橋によるこの評伝は25年ぶりに読むのだけれども、内容はきれいに忘れていた。パラケルススの人生をまとめた第一部と、著作と思想をまとめた第二部に分かれていて、それぞれ、わかる範囲での事実や情報が簡潔に記されている。ちょっと味気ないと思う人もいるかもしれないが、私がはっとした部分があった。「パラケルススは病像の両極として<炎症>と<硬化>を考えていたらしい。そしてその一方に偏るとき、つまり硫黄の過剰か塩の過剰によって病気が生ずるという。」という指摘である。ここでいう「硫黄」と「塩」というのは、「水銀」とともに、ガレノスの四体液説を排してパラケルススが構想した三原質説をなすもので、どの医学史の教科書にも書いてあって、私も30回くらい教えたけれども(笑)、実はこの原質が病理学とどう対応するのか分からなかった。「硫黄」というのは燃焼や熱、気体化を、「塩」というのは、固体化するものを、その中間にあって、固体を融解し、気化するものを液化するのが「水銀」であるという、錬金術の説明はわかるけれども、それがどのようにして生理と病理を説明する原理になるのか、分かったためしがなかった。きっと、これまでにも、この手の説明はどこかで読んでいても気がつかなくて、パラケルススを理解しなければならない必要に迫られて読んで、初めて気がついたんだろうな。

同書の一つの特徴は、ヴァイツゼッカーにインスピレーションを得て、パラケルススと彼の医学の宗教性を重んじているところである。人体の中に善であり美である「調和」を達成することを究極の目的とした古典医学とちがい、パラケルススの医学はキリスト教的である。それは、病めるものを<自然的な手段で>救済することを究極の目標とする。そして、パラケルススにとっての<自然>というのは、神が被造物としてつくった自然であり、その自然の中から薬品を秘法を用いて抽出する錬金術医は、神の地上の代理人のような役割を占める。そこにパラケルススの謙虚と傲岸が同居しているという。