見世物小屋のたらい回し

必要があって、明治の都市が提供した娯楽を都市空間的に論じた書物を拾い読みにする。文献は、橋爪紳也『明治の迷宮都市―東京・大阪の迷宮空間』増補版(東京:ちくま学芸文庫、2008)

大阪の名護町や日本橋筋3-5丁目がある「長町」は、木賃宿と日払いの長屋が密集する典型的な不良住宅地区であった。当時の新聞記事によれば、戸数2800戸のうち2350戸が「不潔家屋」であった。コレラの流行に際しても当地で大きな被害が出ているだけでなく、おそらく周辺地域にも伝播させていると思われていて、スラムクリアランスの対象になっておかしくない地域であるが、やはり明治20年に不潔長屋の取り壊し案が大阪府によって論じられる。住民は難波村の別の土地の改良長屋に移転してもらえばよい。地主たちにとっては、借家人がいなくなるのは打撃であるが、それに代わる収入があればよい。そこで浮上したのが、「千日前」の見世物興行を長町に移転させる案であった。

この千日前に見世物興行が成立した事情も面白い。もとはといえば千日山安楽寺院の墓所と火葬場がこの地にあったが、明治6年に維新政府の神道化政策の結果火葬を禁止するという無茶な政策を行ったため(二年後には撤回されるという)、寺のあたりは灯が消えたように寂れ、埋葬地は荒廃の一途をたどった。この地を再開発する手段として、江戸時代以来の遊興地・見世物小屋などの興行地であった「難波新地」から、誘致を行ったという。難波新地―千日前―長町の関係で言うと、見世物小屋などの遊興施設を次々に移転させて、町に卑猥さといかがわしさのしわ寄せをすると同時に、その町に活力を与える二義的な方法がとられていた。

いかがわしい盛り場の玉突きというか、たらいまわしというか、とにかく盛り場の移転によって長町のスラムクリアランスをするアイデアは、結局実現しなかった。不潔長屋の移転後の長町活性化の切り札であった遊郭(笑)の移転が実現しなかったからだそうだ。こう着状態になっているうちに明治22年には府知事が代わり、計画そのものの見直しが指示されたという。