必要があって、19世紀末のドイツの医者で進化論生物学者であるヴァイスマンの著作を読む。文献は、Weismann, August, Essays upon Heredity and Kindred Biological Problems, 2 vols (Oxford: Clarendon Press, 1892). Kessinger Reprints から便利なリプリントが出ている。
ヴァイスマンは、ネズミの尻尾を20世代にわたって切り続け、尻尾を切られたネズミの親から、短い尻尾を持つ子供が生まれるわけではない実験をして、「獲得形質の遺伝説」を否定したことで知られる。この説は、ラマルクの進化論を反駁したと同時に、生後の改良ではなく、生殖そのものに介入する優生学に理論的な基盤を与えた。このことは、優生学の歴史の教科書には必ず書いてあって、私も、ヴァイスマンについてはそれ以上のことは知らなかった。
この書物は、ヴァイスマンがあちこちでした講演などを集めたもので、実験生物学というよりも、博物学の伝統に乗って、色々な生物の特徴を紹介し、そこから自説を論じていくというスタイルを取っている。その中に、人間の音楽的な才能・能力について本格的に論じている論文があった。「動物と人間における音楽的な感覚について」という表題で、1889年に Deutsche Rundshau という一般雑誌に掲載されている。バッハ一族だとかの音楽的な天才一家を題材にして音楽的才能の遺伝を論じたものかと漠然と予想して読み出したら、これがまったく違う方向の面白い論文だった。
まず、ヴァイスマン自身の音楽の教養に驚かされた。私自身、音楽のことをそれほど知っているわけではないけれども、有名な作曲家だけでなく、名前を聞いたこともないような作曲家や演奏家の名前がぽんぽん出てきて、意外というか、普通に感心した。優生学者たちが論拠として使う歴史上の天才家系のリストは、誰でも知っている名前が並んでいる、失礼だけどレベルが低いものと大体の相場が決まっていると思っているけれども、これも違うのだろうか?
次に面白いことは、この論文は、音楽の天才の遺伝を論じているのではないことである。獲得形質としての音楽の才能が遺伝しないにもかかわらず、なぜヨーロッパは、他の文化圏に較べて、高度に発達した音楽を有しているのだろうかという疑問を提出し、それを手をかえ品をかえて丁寧に論じている。たとえば、サモア(ヴァイスマンは、ポリネシアの音楽を、単純だが美しいと評価している)にモーツァルトのような天才が現れたら、何が起きるだろうか、彼は弦楽四重奏や交響曲を書けるだろうかというような問題を立てている。(この架空の音楽家は、「サモアのモーツァルト」と言われている。そういえば、20年くらい前に、日本の宗教人類学者が書いた似たような名前のタイトルの本が、一世を風靡したことがあった。)あるいは、キューバの黒人たちが優れた合唱団を組織したり、一流のヴァイオリニストが現れたりして当時の話題になっていた例をひいて、(西洋)音楽の才能を遺伝によって受け継いでいない民族が西洋音楽を高度に演奏することができることをどのように説明できるのかというような問題である。
ヴァイスマンの説明は、原形質遺伝のファンダメンタリストがする議論としては、少し意外である。結論としてはあたり前で、西洋人がすぐれた音楽の才能を持っているのは、遺伝の問題ではなくて、伝統の問題であり、教育の問題であり、社会の問題であるという。サモアのモーツァルトは、彼の民族の音楽を劇的に高度にできるだろうが、交響曲を書けるわけではない。西洋の優れた音楽家たちは、必ずしも音楽家の親から才能を遺伝で受け継いだわけではなく、音楽家ではない親から生まれ、教会などで音楽を学んでその才能を伸ばした。西洋の優れた音楽と音楽家は、人種に遺伝した才能の産物ではなくて、歴史の重層と環境の産物なのである。
これは、音楽文化論としては取るに足らない議論だろうけれども、優生学以前の遺伝学者が、環境と教育をこれほど重視した立論をしていることが少し新鮮だったので、記事にして憶えておくことにした。