なぜ「歴史」なのか

必要があって、「なぜ歴史を学ぶのか・教えるのか」論じた最近のエッセイを読む。文献は、Cannadine, David, Making History Now and Then: Discoveries, Controversies and Explorations (Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2008). 

著者のキャナダインは、イギリス出身の歴史学者で、アメリカの名門大学で教えたあとイギリスに帰ってきた。過去10年ほどの間、ロンドン大学の歴史研究所の所長として、一般の人々と歴史学者たちの媒介のような仕事を数多くしてきた。本書は、そのような仕事を集めた論文集である。1998年に、歴史研究所の所長になったときの就任演説を活字にしたもので、イギリスの歴史学者たちを念頭において、これからの社会における歴史学者の課題は何かというようなことを論じたものが参考になった。もちろん医学史には固有の事情があるけれども、医学史家たちが「なぜ医学史なのか」を論じる文章はやはり視野が狭くて、一般史の偉い先生の考えは、より広いヴィジョンがあった。

キャナダインの就任演説もよかったけれども、実は、キャナダインが引用していた、1927年にケンブリッジの歴史教授になったトレヴェリアンの就任演説の一節が一番心に残った。

[ 歴史学が ] 扱う対象は、もう死んだ者たちである。彼らは、かつて存在していたが、今は存在していない。彼らが占めていた場所は、もはや彼らを知らないし、それは我々のものになっている。しかし、彼らは、かつては我々と同じように実存していたのだ。そして、明日には、私たちは彼らのように、影のような存在になっているのである。

The dead were and are not. Their place knows them no more and is ours today. Yet they were once as real as we are, and we shall tomorrow be shadows like them.

いま、こういう名調子で語る歴史学者はまずいないだろう。トレヴェリアンのエピゴーネンたちがこの調子で語りまくる世界というのは、確かにすごくうざったいし、この名調子が空洞化してくると、それは耐えられないだろう。この手のことをいう過去の歴史学者に首をすくめたり背を向けるのはたやすいし、実は、私自身、「未来から見たときに、自分たちが影のような存在になること」の意味を歴史学者として考えたことはなかった。