必要があって、マンチェスター地域の病院の歴史を読む。文献は、Pickstone, John V., Medicine and Industrial Society: a History of Hospital Development in Manchester and its Region, 1752-1946 (Manchester: Manchester University Press, 1985).
著者は、イギリスの医学史研究を長いこと牽引してきた実力者で、書物の形でまとめられたものでは、この仕事が一番良いものだと私は思う。私が医学史を学び始めたばかりのころに読んだ書物で、医療とそれが提供される場の社会史的な分析を縦横に駆使して非常に印象深かった。今読んでも、そうか、こんなに良いことが書いてあったのかと感心する。
産業革命の象徴とも言えるマンチェスターにおける労働者の悲惨な健康状態はあまりに有名である。高額な医療費を払うことができない労働者のために、任意寄付による病院(voluntary hospital) が1752年にマンチェスターに作られた。これは、工業化にともなう急速な人口流入に都市インフラや保健サーヴィスがまったく追いつかない「フロンティア」の状況を改善し、工業都市に文明の恩恵をもたらす意図でエリート層が始めたものである。その一方で、産業革命初期の資本家たちは、貧困と病気を自己責任と捉える思想に基づき、労働者を「甘く扱う」病院には否定的な態度をとるものが多かった。この中で、病院は、自費では医者にかかれないが医療を要求する民衆とエリート層の対立・交渉の場というだけでなく、エリートの内部における社会思想の違いが衝突する場でもあった。
しかし、不況と失業と階級闘争と社会不安の1840年代が終わり経済状況が好転すると、資本家たちの成熟も手伝って、何らかの形で病院を設立することがこの地域にも広まる。その中で、新しい病院は、大資本家による大口の寄付に依存していたことは以前と変わらないが、実際の運営にあたるのは商店主などの小規模なブルジョワジーに任される傾向がある。それと同時に、実際に医療を受ける労働者にも、慈善家に対して従属的になり、感謝を捧げる地位だけではなく、病院の経営に貢献する積極的な役割が期待されるようになる。これらは、職場における募金や共済のシステムで集められ、一人ひとりの額は小額であっても、合計すると相当な金額になった。炭鉱と製鉄で知られた都市・ウィーガンでは、労働者からの寄付が病院の基金の40%を占めていた。ウィーガンの労働者たちは、すでに共済の方式になれていたし、事故が多い行動での怪我にそなえて、医療クラブを経営して外科医を雇っていた。(現在の産業医の原型である。)すでに確立していた労働者たちの自助努力による医療福祉のパターンに新たに付け加わった歓迎すべき要素として、ウィーガンの病院は設立された。ウィーガンの労働者たちが病院によって新たに得たものは、単なる医療ではなかった。医療であれば、すでに団体契約を結んでいた外科医がいたからである。本当の魅力は、看護であり、当時のいわゆるナイティンゲール病棟が象徴する病院の環境であった。
また、ブルジョワジーからなる病院の理事会は、労働者の代表に委員会の委員としての役割を果たさせることもしていた。ブルジョワジーと労働者は、慈善と与え手と受け手というかつての厳密な二分法を和らげて、双方が歩み寄って病院を運営・経営するようになったのである。病院は、「人民のための」ものであっただけではなく、「人民の・人民による」という性格を持ち始めていた。