必要があって、20世紀初頭のオーストラリアのある精錬工場における鉛中毒の労働衛生の歴史研究を読む。文献は、Gillespie, Richard, “Accounting for Lead Poisoning: the Medical Politics of Occupational Health”, Social History, 15(1990), 303-331.
労働衛生・職業医学の歴史は、「勝利者史観」が特に強く、長い期間にわたって幅を利かせていた領域であった。労働環境に潜む職業病の危険を明らかにして、その労働環境を改善することに成功した医者たちが、自分たちの仕事に満足して、その歴史を科学とヒューマニズムが勝利したものとして描くのは当然であるし、正当でもある。しかし、現実は、そう簡単なものではない。この論文は、「職業病の政治学」と「病気の原因説明」という二つの概念を使って、具体的な労働疾病の対策が形成される過程を明らかにしている。取り上げられている具体例は、20世紀初頭のオーストラリアのポート・ピリにあったブロークン・ヒル共同精錬所の鉛中毒事件である。1917年から鉛中毒が報告され、当該会社により最初の補償が行われると、すぐに鉛中毒の証明書を医者からもらって補償を請求する労働者が殺到する。1924-25年には被雇用者の16%にあたるのぼる261人が補償を受け取る。その年に、王立委員会が任命されて調査にあたった。会社側によれば、鉛中毒とされた症例の多くは誤診であり、真正の鉛中毒は食事の前に手を洗わないなど労働者の責任であった。極端な例では、イタリア人の移民労働者が補償金を得るために意図的に鉛を摂取した例もあるとまで主張していた。これは、無論、会社側に都合がよいという視点だけから描かれた歴史である。これに対して、労働者の側に立った歴史というのも理論上は可能である。鉛中毒はすべて真正なもので、それを診断する正しい医学的な知見が得られて、会社は責任を逃れようとしていて・・・というものが予想できる。けれども、このような二項対立をどうやって超えるかというのが著者の狙いだから、そういう方向には話は進まない。
著者が強調するのは、鉛中毒の症状は慢性的に現れてくるもので、多様・曖昧であって、そうだと認定するにしても、そうでないと認定するにしても、決め手を欠いていたということである。そうすると、ある症状を鉛中毒と認定し、労働災害として補償金を払うということは、客観的な基準にしたがって行われる行為というより、会社と労働者と医師たちが、政治的な合意に達した上で行う行為ということになる。この「職業病の政治学」を分析するというのが一つのポイント。
もう一つのポイントは、「病気の原因説明」という概念である。職業病は、ある抽象的な理論があり、それがあてはめられてその病気の概念が確立するわけではない。医学知識、と解決のための方策が相互に構成しあい、互いを支えながら、一つの首尾一貫した「説明」が作られ、それに沿って、病気の原因が同定され、責任の所在が明確になり、対策が立てられるというストーリーが形成される。