古着とボロの歴史

必要があって、古着とボロの歴史を解説した書物を読む。文献は、朝岡康二『古着』(東京:法政大学出版局、2003)

江戸時代から古着・古布などを集めて売りさばく商業が栄えていた。江戸では日本橋富澤町、神田川河岸、柳原土堤町などが古着問屋が集中する町であったし、都会では古着問屋が集まる地区というのはよく見かける風景であった。それは、今で言うセカンドハンドの古着もあったし、古布として使う場合もあったし、「百品梱保呂(ぼろ)」のように、選択しないでそのまま古着・古布を詰めたものもあった。近世の大阪では、古着などを扱う専門業者も存在し、東北への遠隔地流通が盛んであった。それまで麻を主体とした衣類を着ていた東北の生活が、木綿を主体としたものに変わったのは、この古着の流通によるものだという。

江戸・東京ではボロは「建場」と呼ばれる業者が集まっている集散地で扱われた。それは、有償で集める「買い子」と、廃棄されたくずものを拾い集めてくる「拾い屋」の収集人があつめ、長屋の女子供が選別したりしていた。しかし、明治32年の関西地方でペストが流行したときに、ボロがペストの伝播に関係あると考えられたので、古着・ボロ業界は大きな影響を受ける。その年の11月にはボロと古布の輸入は禁止され、明治36年には、伝染病予防法に改正が加えられて、ボロ、古着業者などが取り締まりの対象になった。その年の11月には「屑物取扱規則」が定められて、「東京市外の人家希疎の地で、道路に沿わざる場所にあらざれば[取り扱い場を]建築してはいけない」という規則ができた。現行の建場は、明治40年の6月までは、現在の土地で営業していいが、それ以降は移転しなければならない。それにともない、三河島と日暮里にくずやボロを扱う業者が集中することになったという。また、大正4年には、消毒所を設置することが義務付けられた。(206-209)

これらのボロは、製紙材料として使われたり、裁断して「ウエス」と呼ばれる大砲や銃身などをふき取る軍需用品として使われたという。